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モンゴル人ジェノサイドに関する基礎資料 3

打倒ウラーンフー(烏蘭夫)

モンゴル人ジェノサイドに関する基礎資料 3

中央政府に忠実だったウラーンフーが、文革期に一転、批判の対象となり、それがモンゴル人虐殺と連動していたことを示す。

著者 楊 海英
ジャンル 書誌・資料・写真集
出版年月日 2011/01/01
ISBN 9784894898837
判型・ページ数 A4・1088ページ
定価 本体22,000円+税
在庫 在庫あり
 

目次

     ●第一部 モンゴル人大量虐殺に利用されたモンゴル人指導者ウラーンフー(烏蘭夫)

序論
 1 蓋棺のショー
 2 本書の目的と性質

第一章 ウラーンフーに関する従来の諸研究
 1.1 中華民国台湾における研究
 1.2 中国共産党が描く「ウラーンフー同志」
 1.3 中国による档案の改竄
 1.4 中国周縁部に住むモンゴル人の中のウラーンフー

第二章 ウラーンフーの「花道」―中国共産党華北局前門飯店会議
 2.1 中国共産党華北局前門飯店会議
 2.2 第一次資料が語る華北局前門飯店会議
 2.3 「打倒ウラーンフー」資料の解題

結論

参考文献
本書所収資料の出典

    ●第二部 打倒ウラーンフー資料群

資料一 華北局前門飯店会議資料

 1,解學恭寄給祖春,樹?,子強同志的信(1964年6月10日)
 2,建議印發解學恭講話,插話的請示(1964年8月27日)
 3,權星垣同誌同解學恭同志談話的紀要(1966年5月1日)
 4,解學恭給李雪峰的信及有關文件(1966年5月7日)
 5,華北局工作會議内蒙古各小組會議記録・伊巴盟組(1966年6月2日)
(中略)

 17,中共中央華北局關於烏蘭夫錯誤問題的報告(1966年7月27日)
 18,初掲前門飯店會議内幕(1966年10月31日)
 19,中國的赫魯曉夫包庇當代王爺的罪責難逃(1967年8月9日)
 20,劉少奇,?小平在華北局工作會議期間與烏蘭夫的一次談話(1966年7月2日)

資料二 打倒ウラーンフー(烏蘭夫)資料一

 1,烏蘭夫在内蒙推行修正主義路線進行分裂活動的罪行(1966年7月7日)
 2,烏蘭夫黒事點滴(1966年7月30日)
 3,“當代王爺”烏蘭夫(1967年3月3日)
 4,烏蘭夫的十大罪状(1967年4月26日)
 5,呼和浩特地區無産階級文化大革命大事記(初稿,1965年9-1967年6月18日)(1967年6月)
 6,烏蘭夫黒事録(1967年6月)
(中略)

 118,烏蘭夫的“階級鬥爭熄滅論”與當前的對敵鬥爭(1970年8月5日)
 119,無産階級專政萬歳―批判烏蘭夫的“階級鬥爭熄滅論”(1970年8月5日)
 120,千萬不要忘記階級鬥爭―從特木爾巴根的反革命翻案看烏蘭夫的“階級鬥爭熄滅論”(1970年8月5日)
 121,用鐵的事實回撃烏蘭夫(1970年8月5日)
 122,烏蘭夫是“死老虎”??(1970年8月5日)
 123,批臭烏蘭夫,奪取對敵鬥爭新勝利(1970年8月5日)
 124,徹底批判反革命修正主義分子烏蘭夫的反革命謬論(1970年10月7日)
 125,烏蘭夫是内蒙各族革命人民的死敵(1970年10月7日)
 126,沿著毛主席無産階級革命路線乘勝前進(1971年4月)
 127,黨組織應是無産階級先進分子所組成(1971年4月)
 128,草原銀行邁新歩(1971年4月)
 129,蒙古包裏革命大批判的烈火越燒越旺(1971年4月)

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内容説明

本書は内モンゴル自治区でおこなわれた中国文化大革命に関する第一次資料を解説し、影印。中央政府に忠実だったウラーンフーが、文革期に一転、批判の対象となり、それがモンゴル人虐殺と連動していたことを示す。


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序論より


1 蓋棺のショー


1966年に中国文化大革命が勃発した時に、内モンゴル自治区におけるモンゴル人の人口は150万人弱で、殖民してきた漢族はその9倍に達していた。モンゴル人たちは自らの故郷において完全にマイノリティに転落していたのである。やがて少数民族のモンゴル人は全員が粛清の対象とされ、少なくとも346,000人が逮捕され 、27,900人が殺害され、120,000に身体障害が残ったという[?維民 1991:313-314]。これは中国政府が大幅に被害者数を縮小して発表した公式見解であるが、1989年に自治区党委員会が公表した被害者数は480,000人だった[阿拉騰徳力海 1999:85]。独自に調査した外国の研究者はおよそ500,000人のモンゴル人が逮捕され、殺害されたモンゴル人の数は100,000に達すると見積もっている[Jankowiak 1988:276;Sneath 1994:422]。最近、内モンゴル自治区のジャーナリストは、直接殺害された者と自宅に戻ってから亡くなった者、いわゆる「遅れた死」を含めて、モンゴル人犠牲者の数は300,000人に達すると書いている[Sirabjamsu 2006:44]。このように、中国にいるモンゴル族全体が受難していた現代の凄惨な歴史を当事者たちは中国共産党政府と漢族が一体となって進めたジェノサイドだと理解している[楊 2008:419-453; 2009a:a; 2009b; 2009c; 2010a]。


これほど大規模の虐殺を中国政府はいかなる順序で成功させたのだろうか。今日の中国での公的な見方を整理すると以下のようになる[?維民 1991:294]。


文化大革命の悪しき波が北京から湧き上がると、たちまち内モンゴルを巻きこんだ。北京市の指導部彭真市長らが粛清されたのとほぼ同時に、1966年5月から開催された中国共産党華北局工作会議の席上において、(モンゴル人の)ウラーンフー(烏蘭夫)同志に対する計画的な攻撃(アンダーラインは楊)が始まり、内モンゴルは全面的な動乱に入った。(1967年1月)の「上海における奪権」につづいて、内モンゴルでも「二月の逆流事件」が発生し、「ウラーンフーの黒いラインを抉り出して、その毒害を一掃するキャンペーン(?烏蘭夫黒線、粛烏蘭夫流毒)」と「ウラーンフー反党叛国集団冤罪事件」、そして「内モンゴル人民革命党員を抉り出して粛清する事件」など、数々の冤罪事件がでっちあげられた。


上に引用した?維民(モンゴル名はオドンビリク)の記述だけでなく、漢人の胡志宵が執筆した『当代内蒙古簡史』内の内モンゴル自治区における文化大革命についての文も基本的に同じような書き方をしている[胡志宵 1998:213]。こうした記述はいわば中国政府の正式な見方である。中国の公式見解から、ウラーンフー個人と「ウラーンフー反党叛国集団」とされた人々の存在がきわめて重要である事実が浮かびあがってくる[図們 祝東力 1995; 阿拉騰?力海 1999;2008]。換言すれば、モンゴル人ジェノサイドはまずモンゴル人の指導者ウラーンフー個人に対する政府からの「計画的な攻撃」からスタートし、彼を指導者とする「反党叛国集団」の一網打尽に発展した段階で大量虐殺は断行されたのである。これだけではない。もうひとつのグループである「内モンゴル人民革命党」のボスもウラーンフーである、と中国政府は判断していた[楊 2010:259]。粛清すべき対象者たちのどちらのトップもウラーンフーであると決定された以上、彼個人と彼が関わったモンゴル人の歴史の重要性がジェノサイドというコンテクストの中であらためて浮上してくる。


2007年は内モンゴル自治区成立60周年にあたる。目に見えない、厳しい政治的な制限が設けられた中でおこなわれた華やかな式典に花を供える形で、中国共産党中央代表団から内モンゴル自治区に一冊の本が贈呈された。官製の『ウラーンフー伝(烏蘭夫伝):1906-1988』である。本の扉ページには「ウラーンフー同志誕生100周年に捧げる」とある。同書は巻末に次のようにウラーンフーを評価している[王樹盛 2007:655-656]。


1988年12月8日、中国共産党中央委員会と全国人民代表大会常務委員会が悲しいニュースを伝えた。長期にわたって試練に耐えた共産主義戦士にして党と国家の優秀な指導者で、傑出したプロレタリアート革命家、卓越した民族関係の指導者ウラーンフーが病気のため、北京にて逝去された。この不幸な電波が伝わったところ、大沙漠の南北は悲しみに包まれた。


ウラーンフーという「中華の誇れる息子(中華驕子)」を記憶にとどめ、英傑としての彼の偉大な功績を人々は悲しみの中で思い出したに違いない。中国革命が白色テロのどん底に陥った時に「十月革命」の故郷たるソ連から帰国して、郷里のトゥメトで革命を立て直し、烈火の如き運動を展開したのは彼、ウラーンフーである。


日本帝国主義が大挙して侵略し、国難と民族の存亡にかかる緊急時にモンゴル人の愛国志士らとともに、中国共産党指導の下で8年間にわたって抗日し、勝利を導いたのは彼、ウラーンフーである。


祖国と民族が、光明と暗黒のどちらを選び、中華の各民族をいかなる方向へ導くかという緊急時に、内モンゴルの200万人ものモンゴル族とその他の少数民族を率いて中国共産党が指導する革命の道を歩み、死活の闘争を経て、中国革命が全土で勝利するよりも前に内モンゴル自治区を成立させたのは彼、ウラーンフーである。


内モンゴル自治区の成立により、我が国の民族問題を解決するモデルが確立できた。ウラーンフーが自治区の党と政治、そして軍の仕事を統括していた19年の間、実情と事実に基づく政策が実施された。貧しく立ち遅れた内モンゴルを我が国の最も繁栄した「模範自治区」に作り上げたのは彼、ウラーンフーである。中国共産党の民族政策を創造的に実行し、民族問題を解決し、理論と実践を結合させて、マルクス主義の民族理論をより一層発展させたのも彼、ウラーンフーである。


彼の数々の功績を人々は思い出し、彼に対する尊崇の念を禁じ得ないでいられないであろう。

以上のような蓋棺の評から読み取れるのは、ウラーンフーはモンゴル人であるにもかかわらず、「中華の子息」とされていることだ(写真1 内モンゴル自治区フフホト市内に立つ「ウラーンフー記念館」。入口に「民族精英・中華驕子」とあり、「漢人の息子」のようにあつかわれている。)。いうまでもなく、「中華」すなわち漢である[Naran Bilik 2007:23]。そして、日中戦争の後に内モンゴルの200万人もの諸民族が「光明」と「暗黒」のどちらを選ぶか、つまり、同胞のモンゴル人民共和国との「暗黒」な統一を目指すか、それとも漢人が支配する中国の「光明」な統治を認めるかとの選択肢が迫られた時に、ウラーンフーは「明るい中国」を取ったのである。「立ち遅れた内モンゴル」を中国屈指の「模範自治区」に作り上げ、「マルクス主義の民族理論の充実」にまで貢献したのである。


これほど、中国と漢人の功臣であるウラーンフーが何故、文化大革命の勃発と同時に政府から「計画的に攻撃」されたのだろうか。どうして、彼の一味とされる「ウラーンフー反党叛国集団」のメンバーとされるモンゴル人たちが大量虐殺されたのであろうか。その答えは本書が収録した資料群の中にある。


2 本書の目的と性質


本書は、「ウラーンフー反党叛国集団のボス」との罪を着せられて中国政府と「中華民族」の漢人たちに攻撃されたモンゴル人指導者ウラーンフーに関する第一次資料を集め、解説を加えたものである。彼はまず本人の名前が冠された「ウラーンフー反党叛国集団」のボスとされた。しかし、この「ウラーンフー反党叛国集団」のメンバーとされたモンゴル人たちは数えきれないくらい存在すると断定されたため、個々の成員たちに関する資料を本書は収録していない。ウラーンフーはまた「民族分裂主義の内モンゴル人民革命党の最高指導者」とも断罪されていた。そのため、本書は「内モンゴル人民革命党のボスたるウラーンフー」に関する資料集でもある。つまり、ジェノサイド発動の口実となった「二つの反革命組織」の指導者としてのウラーンフーの資料集である。「ウラーンフーを最高指導者とする二つのグループ」、すなわち「ウラーンフー反党叛国集団」と「内モンゴル人民革命党」の個々の有力なメンバーたちに関する資料は今後、逐次公開する予定である。


上で示した中国政府公認のウラーンフー評伝の一部からも読み取れるように、ウラーンフーは一般的にモンゴル人指導者の中でも親中国的な立場に立ってきたとみられている。また、彼の故郷トゥメト地域は早くから中国人移民に侵略されていたために、ウラーンフーも母国語のモンゴル語がほとんど話せず、「漢化」したモンゴル人とも評されている。「最も親中国的で、かつ漢化したモンゴル人」であるがゆえに、中国政府と漢人たちはまず彼を失脚させることから、一連のモンゴル人粛清運動と大量虐殺の口火を切ったのである。中国政府と漢人たちの功臣だった者が実際は裏で「反党叛国の活動」を推進していた「事実」が発覚すれば、それ以外のモンゴル人たち、たとえば満洲国時代に日本に協力的な姿勢を取っていた人たちには逃げられる余地がなくなる。要するに、モンゴル人全体を粛清するためにも、ウラーンフーのような「親中国的で、しかも漢化したモンゴル人」からまずメスを入れる必要があったのである[楊 2009b:38]。これは、モンゴル人指導者としてのウラーンフーに運命的に付与された殉教の道でもあったのである。したがって、今後、中国文化大革命期間中におけるモンゴル人大量(ジェ)虐殺(ノ)運動(サイド)を研究するには、ウラーンフー個人と彼を指導者とする「ウラーンフー反党叛国集団」になすりつけた「諸罪」を詳細に検討しなければならない。これはいわば、大量虐殺の口実と理論的な根拠がどのように系統的に創造されたかを究明する糸口となるからである。


中国共産党政府は建国後に一貫してウラーンフー一派が進めた中国領内での自治こそが「唯一の正しい選択、唯一の正しい歴史」であると主張してきた。正しいか否かを単純に判断する基準は親中国的かそれともモンゴル人民共和国との統一を目指すか、あるいは内モンゴル領内でソ連型の自治共和国のような高度の自治を実施すべきか、のどちらかだった。しかし、文化大革命が勃発すると、中国政府は180度の急転回をし、変幻自在な解釈を加えて、ウラーンフーとその追随者たちの歴史を「反党叛国」だと断定した。本書は具体的には中国政府と漢人たちが文化大革命中に公布した「ウラーンフー反党叛国集団」批判用の資料を扱っている。文化大革命勃発前と終息後には中国共産党は声高にウラーンフーのみが「愛国の歴史を創造した」との書物を公開してきた。文化大革命中の「反党叛国集団の歴史」とその前後の「愛国の歴史」のどちらが史実であるかを検証しようとする意図を本書は持たない。「墨で以て紙に書いたものはすべて歴史である」、というモンゴル人社会内の伝統[楊 2002;2005]に依拠して、どちらも中国政府と漢人たちが創造した「ウラーンフー史」であると理解し、いずれもモンゴル人ジェノサイドに利用された理論的な武器である、と私は位置づけている。中国政府が決議によって文化大革命そのものを否定したとはいえ、ジェノサイドを推進した歴史は否定できるものではない。


モンゴル人指導者ウラーンフーの生涯の活動は謎に包まれている。彼はいつ、どういう形で中国共産党とモンゴル人ナショナリストたちからなる内モンゴル人民革命党 にそれぞれ入ったのか。コミンテルンの指示を受けてモスクワに滞在していたころと、その後内モンゴルに戻った後にはどんな行動を取っていたのか。何故、彼は同胞たちとの統一よりも彼自身の故郷を占領し、伝統文化を根こそぎ破壊した漢人の国家にとどまろうとしたのか。あるいは何故、彼には中国を選択する道しかなかったのか。そして、そのためには同じ内モンゴルのモンゴル人仲間たちを時には中国共産党の軍事力を借りて抑えこみ、また別の時には同志たちの逮捕と監禁も辞さなかったのだろうか。そして、彼の真の思想は何だったのだろうか。これらはすべて謎のままである。しかし、本書はウラーンフーをめぐる「謎の歴史」を検証しようとするものではない。彼の伝記の再構成でもない。むしろ、マイノリティの民族自決の歴史がいかに歪曲され、無理な再解釈を加えられながら、ジェノサイドの根拠と口実とされていったのかに重点を置いている。本書に収録した資料はすべて中国共産党政府と漢人たちがモンゴル人虐殺を推進するのに組織的に用意した公文書類である。ジェノサイド発動に用いた公的資料群であることを再度、強調しておきたい。


本書は以下のような二部から構成している。


第一部ではまず、モンゴル人指導者ウラーンフーに関する従来の諸研究を整理する。その際に、中国共産党と同様に中国人民族主義者からなる中華民国台湾における「中共観察」として推進された研究成果の分析から着手する。中華人民共和国が自身の歴史を相対化する余裕がない文化大革命時に、中華民国はその古き良きライバルを凝視しつづけていたからである。それから、中国政府が公的に認定したウラーンフーの「歴史」とはいかなる性質を有しているかを検討する。具体的にはウラーンフー自身が残したとされる『ウラーンフー回想録(烏蘭夫回憶録)』[1989]をはじめ、官製の『ウラーンフー伝(烏蘭夫伝):1906-1988』[王樹盛 2007]のような書物群内の主要な内容を示し、ウラーンフーの「歴史」をめぐる記述の性質と解釈上の動揺(ゆれ)を分析した諸研究を紹介する。


つづいて文化大革命期間中に中国政府と漢人たちがどのようにウラーンフーの歴史を恣意的に解釈・再解釈をくりかえして、虐殺の推進に利用したかを当時の第一次資料を用いて解説する。資料解説の際には現在の中国が掲げる「公的なウラーンフー像」を創造するのに用いた官製資料と比較する手法を取る箇所もある。文化大革命中の資料も現在の資料も、当然どちらも中国政府の公文書である。文化大革命中の歴史記述と解釈はその前後の歴史研究と対照的な構図となるが、たとえ現在の中国政府が文化大革命そのものを決議によって公式に否定しても、虐殺の事実は否定できるものではない。


第二部は中国政府から出された「打倒ウラーンフー」関係の第一次資料の影印である。


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編者紹介
楊海英(Yang Haiying)
日本国静岡大学人文学部教授。専攻、文化人類学。
主な著書
『草原と馬とモンゴル人』日本放送出版協会、2001年。
『チンギス・ハーン祭祀―試みとしての歴史人類学的再構成』風響社、2004年。
『モンゴル草原の文人たち―手写本が語る民族誌』平凡社、2005年。
『モンゴルとイスラーム的中国―民族形成をたどる歴史人類学紀行』風響社、2007年。
『モンゴルのアルジャイ石窟―その興亡の歴史と出土文書』風響社、2008年。
主な編著書
『《金書》研究への序説』国立民族学博物館、1998年。
Manuscripts from Private Collections in Ordus, Mongolia I, Mongolian Culture Studies I, International Society for the Study of the Culture and Economy of the Ordos Mongols (OMS e.V.), 2000, Ko¨ln, Germany.
Manuscripts from Private Collections in Ordus,Mongolia II, Mongolian Culture Studies II, International Society for the Study of the Culture and Economy of the Ordos Mongols (OMS e.V.), 2001, Ko¨ln, Germany.
『オルドス・モンゴル族オーノス氏の写本コレクション』国立民族学博物館、2002年。
『ランタブ―チベット・モンゴル医学古典名著』大学教育出版、2002年。
Subud Erike: A Mongolian Chronicle of 1835. Mongolian Culture Studies VI, International Society for the Study of the Culture and Economy of the Ordos Mongols (OMS e.V.), 2003, Ko¨ln, Germany.
『内モンゴル自治区フフホト市シレート・ジョー寺の古文書』風響社、2006年。
『蒙古源流―内モンゴル自治区オルドス市档案館所蔵の二種類の写本』風響社、2007年。

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