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台湾の道教と民間信仰

台湾の道教と民間信仰

シャマニズム・呪法・年中行事など多彩な民間信仰の実態を、巫俗の系譜から検討し、道教の祭祀・儀礼との関連を分析。

著者 劉 枝萬
ジャンル 民俗・宗教・文学
出版年月日 1994/12/12
ISBN 9784938718022
判型・ページ数 A5・491ページ
定価 本体8,000円+税
在庫 在庫あり
 

目次

口絵
関係地図 口絵写真説明

序論 道教の祭りと信仰
  一 前 言
  二 道教の生い立ち
  三 台湾の道教と道士
  四 祭典とショウ
  五 ショウ祭の構成
  六 結 語

      ●第一部●道教の生い立ち

第一章 巫俗の系譜
  一 前 言
  二 歴代民間信仰の範疇
  三 巫覡の職能とその消長
  四 現代巫俗と古代蛇巫

第二章 雷神信仰と雷法の展開
  一 雷神信仰
  二 雷 法
  三 雷法行使の事例
  四 掌心雷
  五 台湾の雷法
  六 結 語
    注
第三章 天蓬神信仰と天蓬呪の変遷
  一 前 言
  二 天蓬神と天蓬法
  三 天蓬呪
  四 結 語
    注

      ●第二部●台湾の道教と民間信仰

第一章 台湾の民間信仰
  一 前 言
  二 地理的環境
  三 歴史的背景
  四 移民の郷貫
  五 廟寺と神仏
  六 廟寺の成長
  七 卓越信仰
  八 結 語

第二章 台湾のシャマニズム
  一 前 言
  二 位置づけ
  三 童キー・アン姨・扶鸞
  四 童キーの諸元
  五 結 語

第三章 台湾の道教
  一 前 言
  二 教 派
  三 道 士
  四 結 語

第四章 台湾の民間ショウ祭
  一 前 言
  二 ショウ例の概要
  三 検 討
  四 結 語

      ●第三部●霊魂と儀礼

第一章 霊魂離脱の諸相
  一 前 言
  二 離魂の主因
  三 離魂の諸因
  四 結 語

第二章 死喪儀礼における死霊観
  一 前 言
  二 彌留(臨終)
  三 搬舗(寝床移し)
  四 守舗(屍体看視)
  五 結綵(門口の赤色標識)
  六 開魂路(引導渡し)
  七 乞水(湯灌の水取り)
  八 沐浴(湯灌)
  九 套衫(経帷子の準備)
  一〇 張穿(経帷子の着つけ)
  一一 辞生(最後の馳走)
  一二 接棺(棺の出迎え)
  一三 割鬮(麻絲の切断)
  一四 入斂(納棺)A 屍体
  一五 入斂(納棺)B 器物
  一六 毀水床・洗浄(寝台こわしと祓い清め)
  一七 結 語

      ●第四部●年中行事

第一章 道教から見た年中行事
  一 前 言
  二 台湾における祭祀暦
  三 中国の道教的歳時記
  四 結 語

第二章 農耕儀礼
  一 前 言
  二 年中行事における農耕儀礼
  三 台湾の現状
  四 結 語

第三章 春祈習俗
  一 前 言
  二 中国大陸の概況
  三 台湾の現状
  四 結 語

あとがき
索 引

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内容説明

シャマニズム・呪法・年中行事など多彩な民間信仰の実態を、巫俗の系譜から検討し、道教の祭祀・儀礼との関連を分析。中国・東アジアの視点から、漢民族固有の民俗に迫る。口絵24頁と詳細な分類索引を付す。


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序論 道教の祭りと信仰


一 前言


旧い文化伝統と地大物博を自負する中国における主な宗教は、ふつう儒教・仏教・道教のいわゆる「三教」が挙げられる。しかして仏教はインド伝来の外来宗教であり、儒教とて宗旨は倫理道徳を説く教学であって、本質的には宗教の範疇に入らない。ゆえに道教のみが純粋の、中国に発生した固有宗教ということになる。そして高度の漢文化を背景にした悠遠な歴史過程をふまえ、文化的落差によって必然的に、ある程度、周縁諸民族への滲出ないし伝播は免れず、したがって厳密にいえば、その分布は一民族に止まらないが、大局から鳥瞰すればほとんど中国の民族的宗教だと称してもさしつかえなく、じじつ漢民族自身が、実感としてそう受けとっているのである。


なにぶんにも長生不老という永遠の生命を求めて仙人たらんことを冀う現実的な宗教である道教は、発生的に古来の民間信仰を下地にしているせいか、その実態はまことに雑駁、芒洋として掴み難く、教義・経典・儀式・教団・組織などの条件が完備した既成宗教に対する観念をもってしては、なお律しきれない幾多の面を残しているせいか、今日の衰微を招き、低俗な迷信として知識層から蔑視されてもいるのである。


しかし一般民衆にとって、現実はどうであろうとも、道教とは空気のようなもので、ことさらその存在に気がつかないけれども、生存にとって不可欠なものであり、精神の拠り所として、そこに心の安らぎを覚え、生き甲斐を感ずると言っても、おそらく過言ではなかろう。まことに道教こそ、漢民族の体臭がぷんぷんにおう、日常生活の一部分なのである。


二 道教の生い立ち


かように人びとが求めてやまない神仙思想の起源は、古く戦国末期から山東地方を中心にして活躍した方士たちが唱える神仙説であり、秦の始皇帝が琅邪(山東省)の方士徐福を遣わして、蓬莱仙境に長生不死の霊薬を求めるべく、東海に渡ってついに帰らなかった伝説はよく知られている。前漢時代でも武帝が仙人たらんとして、方士の所説に惑溺したといわれている。


そして通説によれば、後漢明帝の時に、インド仏教が伝来し、経典や仏像がもたらされ、僧侶が渡来して寺院も建立され、しだいに流布した。まだ固有の宗教を持っていなかった当時の中国人にとって、いきなり異質的な高度の既成宗教に接した驚嘆ぶりは想像に難くない。たぶんにこの外来仏教の刺激が契機となり、なおかつ多大の影響をうけて、従来の神仙説を核とし、方術やその他の雑多な民間信仰をもって、独自の宗教にまとめあげる気運が促進されたのも無理はない。初期の集団組織として、いっぱんに道教の起源とみなされる後漢末の太平道と五斗米道がこれである。河北地方に起こった太平道の創始者は干吉だが、張角が教主になると、主に符ロクによる呪術的治療法で信徒十数万を糾合して挙兵し、いわゆる黄巾の乱に発展するが、まもなく平定された。やや遅れて張陵によって四川地方に創設された五斗米道も、同じく巫術性の強い教団だが、子の張衡を経て、孫の張魯の代になると、組織が大成されて一時宗教的独立政権を確立するが、三国時代、魏の曹操に降伏した。しかしこの教派はのち江西に移って、天師教すなわち正一教の法統を伝え、かなりの教勢を維持して今日に至っているのである。


ついで晋代になると、葛洪が『抱朴子』および『神仙伝』を著して、神仙の実現を信じ、初期道教を学説として体系化した足跡は大きい。いっぽう江蘇地方では、茅山道すなわち上清派が勃興する。その開祖として三茅君伝説があるが、西晋の魏華存という巫女だともされている。後に陸修静や陶弘景などが輩出して、道教の教理を整備した業績があり、主に江南地方一帯を教区として、微弱ながら現今まで伝えられている。


次の南北朝は王朝の興亡めまぐるしかったが、北魏の寇謙之が仏教の攻勢に対抗すべく、天師道を改革し、儒教や仏教をも参酌して、新天師道を創唱した。太武帝は彼に心酔のあまり、自ら符ロクを受けて太平真君と称し、ついに廃仏をさえ断行した。まさに国家宗教にのしあがった最初の、道教史上における画期的なできごとであり、道教はここにおいて教団が確立し、着実な発展をとげたのである。


(中略)

三 台湾の道教と道士

叙上の如き変遷をたどって、現在の中国道教は、天師教・全真教・茅山教という三派鼎立の形勢であるが、地理的に見て、台湾はとうぜん最も長い伝統をふまえて南方を地盤とする天師教派の勢力圏に入る。これに対し、北方に盛行して天師教と拮抗した全真教の存在は認められない。茅山派は両大派の間に介在して劣勢であり、台湾でたまに茅山という言葉を聞くこともあるが、これはたぶんに小説や戯曲に登場する悪法師としての茅山道士を指すイメージにすぎず、実体があるわけではない。


しかして台湾は過去において中国の辺疆であり、漢人による開拓が遅かったために、民間信仰も複雑多岐にわたり、いくたの変容をとげている。それらの従事者をほぼ道士・法師・霊媒の三段層に分類できる。まず上層の道士は俗に師公と称し、「道教を奉じる士」であり、天師教派のほか、たまに老君教を自称する者もあるが、信奉する祖師の軽重をいずれに置くかの主観的相違だけで、実際の区別はない。次の法師は「法を行う師」で、専ら赤鉢巻姿で行う紅頭法を、ことさら道教に対抗して自ら法教と誇称しているが、その本質は巫覡の徒、いわば祈祷師のたぐいにすぎない。その教派は許真君を奉ずる閭山教と徐甲真人を奉ずる徐甲教、および姜太公を奉ずる客仔教の三派に分かれ、閭山教はまた臨水夫人を奉ずる三ダイ教と張聖君を奉ずる法主公教とに細分され、いたって多彩である。そして最下層の霊媒はまた、男性の神おろしたる童キー(タンキイ)、および女性の仏おろしたるアン姨(アンイイ)とに分かれる。


これで見ると、業務が互いに截然と別れているようだが、実情はしからず、かなりの重複や全面的習合が甚だしく、むしろ混沌として識別しがたい現状である。たとえば道を奉じて専ら修行にいそしむ、いわば生粋の者は一人もなく、いかなる道士といえども必ず法教を兼修し、はっきりとこれを「道法二門」とうたっており、道士を標榜していながら、実は紅頭法術で法師として、なりわいを立てているのである。またその業務にも救生と度死の区別があり、救生とは生人を救う意味で、駆邪押サツや祈安植福などの辟邪法術、つまり加持祈祷の専業者で、俗にこれを紅頭師公と称し、度死とは亡者を救う意味で、救生のほか、さらに葬儀や供養などの死者儀礼にもたずさわる者で、これを烏頭師公という。ところが法師は巫術を駆使して魔除けや病気治療をする専門家だから、「道」とは関係なく、したがって道教儀式などを執行する能力がない。すなわち法師は業務の範囲を、道士から一方的に蚕食されるため、いきおいさらに下層の霊媒たる童キーと結託して共存せざるを得なくなり、かかる現象は郷村においてことに顕著である。じじつ童キーが法師を兼業したり、あるいは法師が臨時に童キーになる例も少なくない。しかのみならず、駆邪や治病をするアン姨もあり、童キーとアン姨の所業が混合したりもする。ことに近年は社会変遷の加速に伴って、かかる崩れの現象がますますひどくなっている。

(後略)

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著者紹介
劉枝萬 (りゅう しまん)
1923年、台湾に生まれる
1946年、早稲田大学文学部史学科在学中、終戦のため帰国
1977年、東京教育大学文学博士
1989年、中央研究院民族学研究所研究員を定年により退任
現在、中央研究院民族学研究所兼任研究員、日本道教学会理事、儀礼文化学会専門委員
主著、『中国道教の祭りと信仰』上・下(1984年、桜楓社)

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