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中国映画の文化人類学

中国映画の文化人類学

80年代から90年代に光彩を放った中国・台湾・香港映画。これらをフィールドとして読み解き、現代中国社会のコンテキストに迫る。

著者 西澤 治彦
ジャンル 人類学
文化遺産・観光・建築
シリーズ アジア・グローバル文化双書
出版年月日 1999/08/10
ISBN 9784938718213
判型・ページ数 4-6・302ページ
定価 本体2,500円+税
在庫 在庫あり
 

目次

はじめに

プロローグ

 第一部

黄色い大地
古井戸
芙蓉鎮
紅いコーリャン
秋菊の物語
青い凧
活着(生きる)
心の香り
哀恋花火
悲情城市
恋する惑星

 第二部

ニュー・シネマに描かれた民俗事象
民族誌としての中国ニュー・シネマ

エピローグ

初出一覧
文献リスト
索引

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内容説明

「黄色い大地」「芙蓉鎮」「心の香り」「悲情城市」など、八〇年代から九〇年代にかけて光彩を放った中国・台湾・香港映画。文化人類学者の著者は、これらをテクストあるいはフィールドとして読み解き、現代中国社会のコンテキストに迫る。


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はじめに 西澤治彦


中国映画界では、一九八〇年代後半以降、いわゆる「第五世代監督」と呼ばれる若手の監督らが台頭し、中国映画のニュー・ウエーブが巻き起こった。彼らが第五世代と呼ばれるのは、中国で映画が製作され始めた一九〇五年から一九四九年までの監督らを第一世代とするなら、それから数えて五世代目にあたるからである。ちなみに、第二世代は建国後から反右派闘争前の一九五六年まで、第三世代はそれから文革が終了する一九七六年まで、第四世代がそれから一九八〇年代までとされている。


第五世代監督といっても、確固たる実体があるわけではないが、彼らに共通するものとして、青年時代の文革・下放体験と、それによって培われた農村への理解や、中国社会の矛盾を直視し、それを映像化してゆく勇気があげられよう。それはそのまま、それまで絶対的であった中国共産党への疑問を恐れずに呈することにもつながり、当初は当局とも相当の緊張関係が存在した。


中国当局が国内で上映される映画に目を光らせるのは、娯楽の少ない中国において、映画はまだまだ社会的な影響力が強いからである。新しい監督らは、文革時代の教条主義的で、党の宣伝をになうような映画から潔く決別し、あくまで個人の作品として、自己主張を貫き通した。もちろん、検閲によって修正を余儀なくされた作品もあったが、そのきわどい主題と、斬新な映像は、世界の映画祭において高い評価を受け、彼らの活動を側面から支える役割を果たしてきた。


もちろん、彼らがこうした映画を撮れるようになったのは、一九八〇年代から本格化した経済改革・対外開放政策によるところが大きい。経済の発展と民主化の流れは、中国社会に大きな変化をもたらした。中国ニュー・シネマの活動は、中国社会のこうした動きと密接に連動している。それから一〇数年の歳月が流れ、数多くの話題作が生み出されてきた。彼らの活動も国際的な認知と評価を受け、さらに続く世代の出現によって、今やその歴史的な役割が総括されようとしている。実際、個々の監督もそれぞれ独自の方向に展開し、もはや第五世代と一括して呼ばれることもなくなってきた。


本書は、このような一つの節目の時期にあって、私がこれまで書きためてきたニュー・シネマの評論を、一冊にまとめたものである。どうして文化人類学を専攻する私が中国映画の評論を書くことになったのか、ここで簡単に説明しておく必要があろう。


当時大学院生だった私は、一九八五年から八七年までの二年間、南京大学に留学する機会を得、その間に江蘇省の農村を中心に、専門である文化人類学的な調査を行うことができた。その時期はまた、中国ニュー・シネマがまさに世に出ようとしていた時期でもあり、期せずして、ニュー・シネマの誕生を現地において見届けることができた。帰国後も、中国映画の新しい動きに注目しながら、今日までいくつかの映画評論を書き続けてきた。もちろん、留学する以前から中国映画を観てはいたが、評論を書こうとまでは思わなかった。だが、中国で観たニュー・シネマは、とにかく面白かった。それは、それまで味わったことのない感情を喚起し、私の心を大きく揺さぶった。それには、一年の滞在を経て、中国社会の問題点や、中国人の生活感覚、農村の実態などが、自分なりに肌で理解できるようになっていたことも大きいと思う。この面白さ、奥の深さは、いったい何なんだろう、という探求心が芽生えたのは、中国研究者としては当然の成り行きであった。


このように、私はあくまで中国研究者、あるいは文化人類学を志す人間として評論を書いてきた。私は職業的な映画評論家ではないので、世界の名作を数多く観ているわけではないし、製作サイドや配給会社と何らかのつながりがあるわけではない。あくまで一人の中国研究者、そして一人の観客として、映画を観、評論を書いてきた。


本書に納められた評論の中には、映画評論というよりは、個々のシーンの解説や、その背後にある社会制度や社会状況などを論じたものも多い。そこまで深読みしなくても、単純に楽しめばいい、というのも一つの考え方ではある。だが中国映画はやはり外国の映画であり、しかも共産党による一定の政治的な制約のもとでつくられているため、間接的な表現も多い。中国人観客であれば、隠されたメッセージを敏感に感じ取れても、外国人にとってはそれが難しいこともある。


本書の評論は、このギャップを埋めることを一つの目的としている。評論というよりも、異文化社会の解読になっているのはこのためである。映画を、ある社会を解読するテクストととらえ、じっくりと分析するという試みが、あってもいいのではないかと思う。もっとも、その為にはそれに耐え得るだけのリアリティーと密度が映画に求められるが、本書で取り上げた作品は、いずれもそれにふさわしい内容を持っていると思う。この作業は、これらの映画がどこまで映像化されたテキストとしてとらえることができるのか、というのを探ることにもなる。それはひいては映像人類学の一つの可能性を探ることにもつながろう。だが、本書の最大の目的は、あくまでこれらのニュー・シネマをより深く味わうための一助として、中国研究者の立場から、解説を提供することにある。


本書は二部構成になっており、第一部において個々の作品の解説を行い、第二部において、映像人類学の立場からの小論を付した。第一部に収められている十一本の作品は、私が特に面白いと思った映画が選ばれている。もちろん、この他にもいい映画があることは言うまでもないが、その全てに評論を書くわけにはいかない。従って本書で選ばれた映画は、いわば、マイ・フェイバリット、私のお気に入りの映画ということでもある。なお、はじめに紹介した監督の世代区分に従えば、第四世代に属する監督の作品もいくつか含まれている。謝晋監督の『芙蓉鎮』は、厳密に言えばニュー・シネマとはいえないが、初めて文革を正面から扱った映画であり、後に続く文革映画の先導役を果たした作品であるので、あえて収めることとした。また呉天明監督の『古井戸』は、張芸謀がカメラマンを務めるなど、第四世代と第五世代との合作作品であるが、なによりもすばらしい映画なので収録している。


ところで、ニュー・シネマの動きは、中国での動きと連動するかのように、香港・台湾においても沸き起こっている。本書のメインは中国の映画であるが、香港・台湾からも、話題作を一作ずつ含めることとした。また、プロローグとして、留学先の南京で執筆した一文を収めた。これは一つの作品を論じたものではないが、ニュー・シネマ誕生当時の雰囲気を伝える文章となっているので、収録することとした。また、エピローグに、私と中国映画との関わりなどについて記しておいた。


本書はこのような構成になっているため、何処から読み始めていただいても構わない。観たことのある映画の評論から読んでいただいてもいいし、頭から読んでいただいてもいい。というのは、作品の製作年代順に評論をならべているため、通読していただくと、中国ニュー・シネマの流れを概観できるような構成にもなっているからである。

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著者紹介
西澤治彦(にしざわ・はるひこ)
略歴 1954年、広島県生まれ。筑波大学大学院博士課程修了。ハワイ大学(1981~82)、南京大学(1985~87)留学。カリフォルニア大学客員研究員(1995~96)。
現在 武蔵大学人文学部教授
専攻 文化人類学・中国研究専攻
編著 『アジア読本・中国』(河出書房新社 1995共編)、『東南中国の宗族組織』(弘文堂 1991 M.フリードマン著 共訳)、『中国食物事典』(柴田書店 1991 共編) ほか。

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