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台湾原住民研究 4

台湾原住民研究 4

漢化と近代化の波に呑まれ、消失・変容しつつある多様なその文化を考究。特報・台湾大地震、論文・資料・調査報告・エッセイ等。

著者 日本順益台湾原住民研究会
ジャンル 定期刊行物
シリーズ 雑誌 > 台湾原住民研究
出版年月日 1999/12/25
ISBN 9784938718992
判型・ページ数 A5・280ページ
定価 本体2,000円+税
在庫 在庫あり
 

目次

[論文]

タイヤル族に対するイレズミ禁止政策──その経緯と検討(1) (山本芳美)
憑依する巫女、原初への追憶と新たなる神々──漢族でもなく、シラヤ族でもなく(2) (山路勝彦)
〈ルカイ族〉の誕生以後──台湾原住民ルカイ研究史(その2) (笠原政治)
歴史的な慣習としての首狩、そして、過去を克服する必要 (金子えりか)

[研究ノート・資料]
調査資料の現地における価値をめぐって(蛸島 直)
ブヌンの名前に関する覚え書き( 森口恒一)
小川尚義の未発表原稿二編(土田 滋)
臺湾府誌に出でたる蕃語(小川尚義)
臺湾蕃語の音韻変化(小川尚義)

[書評]
清水昭俊氏の「日本における植民地主義と近代人類学の発展」についての短評(末成道男)
家族史から見通す台湾──『故国はるか──台湾霧社に残された日本人』(下山操子著) (山本芳美)

[報告]
バークレー国際会議の開催(土田 滋)
台湾原住民国際研討会の開催(土田滋ほか)
国立台湾大学図書館で開催された「伊能嘉矩と台湾研究」特別展(笠原政治)

[特報・台湾大地震]
研究会からの報告(末成道男・土田滋)
集集大地震とブヌン語調査報告(森口恒一)
被災地を訪ねて(中川明)
「921台湾大地震」に関する報告──埔里にて(陳文玲)
危機にさらされた民族境界線──921大震災後の台湾原住民(黄智慧、安場淳・胎中千鶴訳)
台湾921大震災における台湾原住民の情況報告(石丸雅邦)
台湾大地震に関する新聞記事

[追悼]
「ほら、これは萬大社の写真だ」と瀬川孝吉先生(笠原政治)
鳥居龍次郎氏を偲ぶ(末成道男)

[彙報]

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内容説明

かつて「高砂族」と呼ばれた台湾先住諸族の研究誌。漢化と近代化の波に呑まれ、消失・変容しつつある多様なその文化を、人類学の立場から考究、紹介。特報・台湾大地震、論文・資料・調査報告・エッセイなどを含む関連情報の拠点。


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特報・台湾大地震(抜粋)
集集大地震とブヌン語調査
森口 恒一


I. 地震当初


9月19日に台北から埔里近郊の仁愛郷中正村へブヌン語の調査に出かけた。7月に一回調査を行ったが、学校の仕事があり、一時帰国し、フィリピン調査の後、改めて調査をする予定であった。


20日の午前と午後の聞き取り調査を終え、夕食をとりその後また調査を開始した。10時頃にそれも終わり、11時過ぎに床についた。前日の移動の疲れがあったせいか、すぐ寝入り、一番寝入った時に最初の地震が起こった。1時半過ぎから連続する小さな揺れとあちこちでする物の壊れる音、そして、ベッドの上にはぬいぐるみなどが落ちて来て目が覚めた。
以前の台湾や現在のフィリピンの現地調査の場合は、寝る前にしなければいけない儀式のようなものがある。ともかく電気がないために7時を過ぎると真っ暗になってしまう。そこで寝床の回りの決まったところに懐中電灯、虫刺されのための薬、スリッパ、そして、衣類を置いておかないといざという時に、右往左往しなければならない。この時も昔からのくせか、フィリピン調査の感覚が残っていたせいか、偶然に机の上に懐中電灯と虫刺されの薬、横にスリッパ、椅子の上に衣服を置いて寝た。


地震が起こるとすぐ電気が消え、辺りは真っ暗で、不気味な絶え間ない地震による物音が聞こえるだけであった。そこですぐに起き上がり懐中電灯をつけ、口にくわえて衣服をつけていると2階からインフォーマント夫婦が降りて来た。台風などが接近しそうな時には、懐中電灯などは用意するが、それまでそれほど地震の揺れがなかったために、何も準備が無く、彼らは気のみ気のままで真っ暗の中を降りて来て、階下の光を見つけたのである。


そこですぐに、家の鍵を開け、外に飛び出し、庭でしばらく様子を見ていたが、弱くなるどころか、だんだん強くなるので、この地域で一番広い空き地である小学校の運動場へ逃げた。この時、大家さん達は履き物もなく、寝ている時そのままの姿で運動場に行った。運動場では地震のために立っていることが出来ず、皆、膝を曲げて中腰で成り行きを見守っていた。また、車を持って来た人が車のラジオをかけて、それをみんなで聞き、この地震の大きさが並々ならないものであることが判明した。


5時過ぎに東の空が白みかけて来ると、地震は相変わらず強いが、間隔が少し開いて来たので、家に戻った。まだ、地震が続いていたが、連続の地震ではなくなったのでともかく必要な物を取りに入った。すべての戸を開け放し、重要な出口であるその一つを鉄のバールを支えにして開けておき、中に入り、大家さんは、衣服、鞋、毛布などを、こちらは鉄筋の家で火事になりそうもないし、オリジナルは日本にあるので、調査ノートを安全な所にしまい、カメラとヴィデオ、そして、有りったけのフィルム、テープ、電池を持って出た。その時もコトと音がしただけで開けていたドアーを抜けて大急ぎで飛び出した。支度をしている時に気がついた事であるが、最初に逃げる時にはきちんと棚の上に置いてあったテレビや酒の瓶があちこちに飛び散り、家の中は酒の臭いでプンプンで酔っぱらいそうであった。荷物と車を小学校の運動場に持って行き、準備をととのえて今度は村の中を歩いてみると、煉瓦作りの屏はすべて倒れ、家の屋上に設置されていた水のタンクもほとんど横倒しになり、ぺしゃんこにつぶれていた。また、古い泥煉瓦で出来ている家も必ずと言っていいほど倒壊していた。大家さんのおばさんはこのタイプの家にいて、崩れてきた壁に埋まってしまったが、掘り起こされて、奇跡的に無傷で助け出された。この村では、180軒位の家があるが、その半分が半壊または完壊であったということである。しかし、避難が早く、高い建物がなかったせいか、死傷者はなかったということである。ところが、運動場の反対側の小学校の建物は、時間が経つごとに余震のために屋根が少しずつずれ、数日後には崩れてしまった。


次に、村の外へ出る4つの道を調べてみるとすべて崖崩れのために進む事が出来なかった。電話も村内は通じるが埔里、台中、台北へは全く通じなかった。携帯電話(行動電話)も多分埔里の電話局が壊れてしまったためか使えなかった。村から出られる道を捜している時に山の下からこの村出身のブヌンの警察官が登って来て、埔里が壊滅的な被害に会ったことを伝えた。……(以下略)


「921台湾大地震」に関する報告――埔里にて――

陳 文 玲


1999年9月21日台湾時間午前1時47分は台湾人にとって忘れられない歴史的な瞬間であった。マグニチュード7.6の大地震が台湾中部1で発生した。20数秒間続いた大きな揺れで、多数の人命が奪われ、数万人が家を失った。10月21日までの統計によれば、死者は2400人を超え、負傷者約8800人、全壊家屋8000軒以上という。被災者は全人口の約11%に当たる32万人に達し、物的な損失は約3000億元(約1兆円)で、これはGNPの3.3%に相当する(資料源:台湾行政院主計處)。台湾の経済を支えているハイテク商品製造業や観光サービス業などの経済面の損失を入れれば、総被害額はさらに増大するだろう。


埔里に行く
地震が発生してから、台湾各地域の被災情報が続々と報道されたが、原住民の居住地域については、マスコミではあまり報道されていなかった。そうしたわけで、私は台湾に帰国後、今回の震災に関する原住民関係の新聞記事などを収集した。タイヤル出身で民間研究者兼作家のワリス・ノガン氏の故郷、台中県和平郷自由村の双崎部落とその隣の三叉坑部落が山崩れの被害をこおむり、一部の家屋が流されたということがワリス・ノガン夫婦の新聞記事で分かった。震源地に最も近い、仁愛郷の山地への連絡道路はこわれ、軍のヘリコプターでしか救援物資を運び込めない状態で、それ以上の被害状況は全く分っていなかった。現地に近づけば、実況が分かるのだろうと思い、私は埔里に行くことに決めた。10月14日に台北発の直行バスで埔里へ向った。高速道路の両脇には、いつも通りの風景が広がっていたが、草屯の台湾手工業研究所に近づくと、ブルーの防水シートや簡易型のテントをはっているシーンが目に入ってきた。さらに埔里に近づくにつれて、晴れているはずの青空が次第に暗くなってきた。まだ午後3時過ぎだったが、日差しが弱くなり、肉眼で太陽を直視できるぐらいに曇っている。これは、天候のせいではなく、地面からのほこりが上昇して空全体をくもらせていたのだ。窓が閉まっているバスの中の空気までほこりっぽくなる。かつて緑豊かだった山々の風景が信じがたいように土色の禿山2に変り、映画でしかみたことのない地獄絵のような情景が眼前に広がっているのには唖然とさせられた。4時間バスにゆれられた後に埔里に着いた。水がきれいで、美味しいビーフン、サトウキビ、紹興酒の産地で有名な埔里街は、地震で建築物や店の看板が傾いたり倒れたりし、瓦礫だらけであった。あたりにうすい消毒水の匂いが漂っているのが印象的であった。……(以下略)


危機にさらされた民族境界線──921大震災後の台湾原住民──
黄智慧(安場淳・胎中千鶴訳)


今日(10/30)だけで、もう4回も余震を感じた。比較的強い揺れだったが、いったい震源地はどこなのだろう。そのうちの一回は午後、ちょうど私が埔里の友人と電話で話している最中に起こった。「地震だ!」と友人は大声で叫ぶものの、私がいる台北ではまだ何も異常は感じられない。しかし彼女はまずまっさきに子供を屋外に避難させてから、再び私との電話を続けた。台北が揺れ始めたのは、その一分後のことである。


子どもの頃から台北に住んでいるが、これまでは多くてもせいぜい年に3-4回の地震を経験する程度だった。しかし9月21日以降に台北で感じた余震の数は、過去数十年の総数を上回っているように私には思える。台北が一揺れするたびに、今度の震源地はどこなのかと、みんなあれこれ推測するのだが、中南部出身の人々にとってはいたたまれない心境だろう。彼らはそのつど故郷との連絡に追われねばならないのだから。埔里に住むタイヤル族の友人は、今はもう地震を感じるや否や、ほとんど条件反射の如く荷物をまとめて家からテントに移ってしまうという。しかも彼らはすでに自分の体感でマグニチュードの規模の見当がつき、これが「結構当たる」ので、今さらニュースの地震情報など聞く必要はないのだそうだ。


埔里地区は人口8万余人、戸数2万5千ほどの小型地方都市である。台湾島の中心部にあたり、古来さまざまな民族が行き交う地域でもあった。今回の震災では家屋の全壊戸数7000余、半壊7000余の被害を受け、現在も1万人を超える人々がテント生活を送っている。近接していた役場や警察署、住民局はすべて損壊したため、震災直後の救援活動はこれによって大いに混乱をきたし、現在もなお復旧作業全般の進捗状況に影響を及ぼしている。


そうしたなか、公路局の近くにある宏仁国中(国民中学)内に大規模な原住民の仮設キャンプが誕生した。これはこれまで漢族居住地域内に分散して暮らしていた原住民が、震災直後の混乱期に生きていかれるか否か危ぶんで各地からここに結集し、グランドでテント生活を送りながら「自救会(=自助組織)」を結成したことが発端となって成立したものである。このキャンプの避難民は一時期1200人に及び、現在もなお600人前後が暮らしているが、大きな余震のたびに、昼夜を問わず避難民が流入するため、正確な人数は把握しにくい状況にある。


目下のところ、震災後に誕生した「埔里鎮原住民自救会」は、組織としてみるとかなり脆弱であるといわねばならない。というのも、彼らは本来属していた隣里組織(日本の町に相当)を離れてしまったことで、行政の目が行き届かない状態に置かれているからである。しかし彼らがそれでもなお一ヵ所に結集し、国の援助システム内に戻ろうとしないのはなぜだろうか。おそらく従来の地域社会に居続けることで、彼らの場合はむしろより劣勢な立場に追いやられ、不利益を被るおそれがあるからだろう。また他方、山間部の住民が、恐怖心やその他の理由から山を下りて来る場合もあり、そうした人々は現在もなお山と平地を行き来する生活を余儀なくされている状態だ。


このような多くの不利な条件下にありながら、彼らはそれでも自身の力によって動き始めている。この仮設キャンプでは2名の指導者に恵まれた。両者とも仁愛郷選出の代議士だが、また同時に自らが埔里にある自宅に被害を受けた被災者でもある。現在彼らは山間部住民とキャンプの避難民双方のさまざまな要望に対応すべく奔走しており、現時点では、関係各方面との交渉を通じて、ようやく原住民向けの臨時住宅建設決定にこぎつけたところだ。この計画だと、2年以内に100戸余りの被災者がここに入居することになる1。これが埔里に完成すれば、地震によって生み出された国内初の新しい原住民コミュニティとなるはずだ。その戸数は山間部の大きな集落とほぼ同規模で、軍人、公務員、教員など一部の住民を除けば、その大半が労働者で構成されている。彼らは地元での就業機会に恵まれないため、山間部から都市部に下りてきてアルバイトなどで暮らしをたてている人々である。


こうしたコミュニティ設立に対する政府の反応は一様ではない。中央政府は内閣に「原住民委員会」を設置しており、委員会では震災後の原住民が置かれた不利な状況に対して比較的理解を示すとともに、新コミュニティ建設にも前向きな姿勢をとっている。しかし一方、地方の行政単位レベルでは、地域内に新たな原住民コミュニティが出現することで治安上のトラブルが引き起こされる事態を警戒し、慎重な態度を崩そうとしない。確かにコミュニティの住民となるタイヤル族、ブヌン族及び教会所属の各グループのうち、タイヤル、ブヌンの両部族は歴史上いまだかつて共同生活を経験したことがないし、それどころか狩猟区域をめぐる争奪戦を繰り広げた歴史をもっているのも事実だ。新世紀から始まる彼らの共同生活がどのように営まれていくのか、現在のところは誰も予測できない。それゆえ仮設住宅完成後、このコミュニティ内の各種業務をどのように企画・運営していくべきかということが、現段階の重要な課題といえるだろう。もとより基盤となるものは脆弱であるから、これはまったくゼロからの試みといっていいかもしれない。コミュニティが中央および地方行政の体系内にスムーズに受け入れられるためには、より一層の協調と努力が求められるだろう。


現実問題として、この大震災がエスニック・マイノリティに与えた衝撃は決して死傷者数や物質的な損害で算出することはできない。地震によって表面化した問題は前例に仰ぐことのできないものばかりであり、行政当局も善処策を見いだせずにいる状態だ。とりわけ、総人口わずか283名という、台湾で最も小規模のエスニック・グループ、日月潭徳化社のサオ族が受けた被害はきわめて深刻といえよう。彼らの部族としての歴史や文化は現在絶滅の危機に直面しているのだ。サオ族は今、祖先の地であるPuzi([pu:D]、漢名は「古亭仔」)への帰還を希望しており、かつて彼らが所有していた土地の返還と、その地における自治的な文化地区建設を政府に要求している。……(以下略)


台湾921大震災における台湾原住民の情況報告
石丸 雅邦


今回の地震の被害は台湾中部に集中した。原住民が元々住んでいる地域では主に台中県和平郷(タイヤル族)、苗栗県泰安郷(タイヤル族)、南庄郷東江新村(「鹿場{地名}」から移ってきたタイヤル族が住む)、南投県仁愛郷(タイヤル族・ブヌン族)、信義郷(ブヌン族・ツォウ族)、魚池郷日月村(日本時代の卜吉社、戦後は徳化社。サオ族が最も多く住む地域)等の地域に深刻な被害が出た。(注:郷は日本の「村」規模の行政単位)。また比較的少ないけれども被害があった所は桃園県復興郷(タイヤル族)、嘉義県阿里山郷(ツォウ族)、高雄県三民郷(ブヌン族・ツォウ族)、屏東県来義郷(パイワン族)である。また原住民が移り住んでいる地域としては南投県埔里鎮、水里郷、竹山鎮、南投市、台中県東勢鎮、豊原市、石岡郷、霧峰郷、太平市等で被害が出た(原住民新聞雑誌ホームページ)。
今回の地震の被害とその救助・救済の情況において、元々の居住区に住む原住民と都市部に移り住んでいる原住民の間に違いが見られた。そこで今回の報告では行政上の「山地」と「平地」を区別せず、山間部の原住民としてまとめ、それに対立するグループとして「都市原住民」として分類整理した。


建物倒壊
台湾の中部の地域、台中県東勢鎮や南投県埔里鎮等で大きな地震の被害があった。これらの町は地方の中核となっている小都市であり、東勢鎮には台中県和平郷や苗栗県泰安郷から、埔里鎮には南投県仁愛郷、信義郷から多くの原住民が移り住んできている。地震は漢族・原住民の区別なく襲いかかり、都市原住民の住む多くの建物が倒壊した。


山間部においては一部の被害の深刻な地域を除き、概ね建物倒壊の被害は少ない。家屋倒壊の深刻な地域は台中県和平郷自由村の三叉坑、双崎(著名な原住民作家ワリス・ノーカン氏、リクララ・アグ氏夫妻が住む)、仁愛郷法治村(ブヌン族)、互助村の中原、眉原(タイヤル族セデク系。霧社事件の主役タケダヤの人々が移住させられた川中島{現在の名称は清流}と同じ村)、信義郷の潭南村等である(オミ10月10日、基金会10月16-17日、23-24日、原住民新聞雑誌9月25日,10月9日、台湾教会公報10月10日中時晩報、1999年9月23日A,1999年9月23日B、アグ9月25日、10月13日)。また9月26日の地震によって南投県魚池郷日月村(日本時代の卜吉社、戦後は徳化社。サオ族が最も集中して住む地域。バヌー10月8日)、10月苗栗県南庄郷東江新村(民視新聞10月9日、原住民新聞雑誌10月16日)も大きな家屋倒壊の被害が出た。統計では「全倒」1157戸、「半倒」1970戸、亀裂が入った家428戸(非「原住民」を含む)である。(10月8日18時現在。原住民新聞雑誌ホームページより。台湾では家屋の損傷を「全倒」,「半倒」,「安全」の三段階に分け、家の再建の補助金を支給する額の判断基準としている。)


死傷者の数も多くはない。統計では死者25人、重傷29人、行方不明27人である。(10月8日18時現在。原住民新聞雑誌ホームページ)


救援物資
埔里の宏仁中学校に救援センターができ、1千人を超える原住民が集まった(原住民新聞雑誌9月25日)。埔里では埔里中学校でも物資を配布しているが、原住民は埔里中学校に集まらない。その理由として、原住民は外国人労働者と間違われるから、或いは同国人だと分かっていても民族間衝突があるからである(中央社9月27日)。都市原住民は山へかえろうにも道が断絶していて帰ることもできず、まるで孤児のようになった(原住民新聞雑誌10月2日)。


震災の時、多くの漢族は原住民に対して誤解していた。ある漢族の警察は「原住民は山の中では飢え死にしないだろう。救済物資を取りに来るなんて良心がないのか」と言った(潘筱瑜10月22日)。しかし実際には山間部は深刻な物資不足に見舞われた。米、サラダオイル、塩、即席麺、缶詰等の食料、ローソク、電灯等の緊急用品、テント、ミルク粉、オシメ等幼児用品、チリ紙、生理用品等の衛生用品、ガソリン等燃料が不足した(オミ10月710日、中国時報10月4日)。例えば双崎では9月21日から3日間、外界から遮断され、水と食料が不足した(アグ9月25日)。物資不足の第1の原因は、地震で道路が崩れた事である。例えば埔里から霧社へ通じる途中にある通称「人止関」と呼ばれる谷間が10月9日まで度々崩れ、自動車が通れなかった(オミ10月10日)。また和平郷を通る中横公路の台中県から和平郷へ入る道、谷関と徳基の間が崩れた(中時晩報9月24日)。山間部における特色としては、一度道が通っても余震や大雨によって再び崩れてしまう事である(中国時報9月25日)。地震によって急斜面は特に崩れやすくなっている。一方宣蘭から梨山を経て和平郷、仁愛郷へ至る道は比較的早くから通じていたが、8時間もかかり、遠すぎる(オミ10月10日)。この道路断絶と地震による電話線の断絶によって山間部の情報手段がなくなり、村人が救援を求めるのも遅れ、政府の対応も遅れた。政府は軍に救援を要請した。最初飛行機による空投を行ったが物資が破損,遺失し、失敗。次にヘリコプターによる物資輸送が行われたが、ヘリコプターが降りられない所があったり、多量に輸送ができず、また霧が多発する地域なので限界があった。信義郷双龍村では物資が足りず、くじで分けた(原住民新聞雑誌10月2日、潘筱瑜10月22日)。また原住民自身による生活物資の購入も困難だった。少なからぬ人々が普段は山の麓の東勢や埔里、台中市や南投市で働いているが、道が通じず、働きに出られなくなり、お金が無くなったためである。そもそも近年の外国人労働者や水源地における農業禁止により、原住民は窮乏していた。ガソリンを買うお金も無いため、車を動かすことさえできない(オミ10月10日、民視新聞10月2日)。……(以下略)



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執筆者紹介
山路勝彦(やまじ かつひこ)関西学院大学社会学部教授
山本芳美(やまもと よしみ)昭和女子大学大学院生活機構研究科研究生
笠原政治(かさはら まさはる)横浜国立大学教育人間科学部教授
金子えりか(かねこ えりか)米国LA在住、日本順益台湾原住民研究会
蛸島 直(たこしま すなお)愛知学院大学文学部助教授
森口恒一(もりぐち つねかず)静岡大学人文学部教授
土田 滋(つちだ しげる) 順益台湾原住民博物館前館長
末成道男(すえなり みちお)東洋大学社会学部教授
野林厚志(のばやし あつし)国立民族学博物館民族社会研究部助手
山田仁史(やまだ ひとし) 京都大学大学院人間・環境学研究科博士課程
原 英子(はら えいこ) 東北大学非常勤講師
小林岳二(こばやし がくじ)学習院大学大学院人文科学研究科博士後期課程
中川 明(なかがわ あきら)カトリック中央協議会福音宣教研究室
黄 智 慧(こう ちえ) 中央研究院民族学研究所研究助理
陳 文 玲(ちん ぶんれい)東京都立大学大学院社会科学研究科修士課程
石丸雅邦(いしまる まさくに)岡山大学大学院法学研究科公法政治学専攻

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