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レッスンなきシナリオ

ビルマの王権、ミャンマーの政治

レッスンなきシナリオ

改革路線の向かうところは一体どこか。人類学者としてその基層にあるものを凝視し続けてきた著者の、透徹した政治・文化・社会論。

著者 田村 克己
ジャンル 人類学
シリーズ アジア・グローバル文化双書
出版年月日 2014/03/25
ISBN 9784894892033
判型・ページ数 4-6・336ページ
定価 本体2,500円+税
在庫 在庫あり
 

目次

はじめに──あるいは「迷える『玉座』」

  コラム──ビルマ「レッスンなきシナリオ」

●第一部 政治と王権

1「伝統」の継承と断絶──ビルマ政治のリーダーシップをめぐって
  コラム──ヤンゴン(ラングーン)の今昔
2「社会主義」は経験されたか?──ビルマ農村における調査事例から
3 負のナショナリズム──人類学者が政治を語るための未完成のノート
4 王権と「叛逆」──ビルマの王権をめぐって
5 ビルマの建国神話について
  コラム──ビルマのオイディプス

●第二部 王権と神話

6 東南アジア基層文化論
7 見えない国家──ビルマの精霊祭祀の語るもの
8 ラオス、ルアンパバーンの新年の儀礼と神話
   ──東南アジアの水と山
9 皇帝と女性の祀る社──ベトナム、フエのホンチェン殿
  コラム──精霊信仰の語るもの──王権と異民族

おわりに──あるいは「ミャンマーの『赤と黒』」

初出一覧
ビルマ(ミャンマー)略年表
索引

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内容説明

急速な民主化・開放が進むミャンマー。改革路線の向かうところは一体どこなのか。人類学者としてその基層にあるものを凝視し続けてきた著者の、透徹した政治・文化・社会論。

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はじめにより

 ……このように記したのは、およそ二年以上前のことである(『月刊みんぱく』二〇一一年六月号)。それからも、「ミャンマー・ブーム」は衰えず、ミャンマーは今や世界で最も注目される国の一つとなっている。その間、民主化運動の指導者アウンサンスーチーの国政への参加、政治犯の釈放、検閲の廃止とそれにともない民間の日刊新聞が約五〇年ぶりに発行されるなど、「民主化」は、着実に進展しているように見受けられる。他方で、電気や道路などの物理面だけでなく、法制度や経済システムなどのインフラ整備の遅れがあからさまとなり、また、人材の不足など数多の問題が噴出している。さらに、少数民族の問題は相変わらず根深くあり、ことに、ヤカイン州におけるイスラーム教徒少数民族の問題は、仏教徒とムスリムとの対立という宗教間の対立の様相も呈し、大きな禍根となることが懸念される。こうした背景には、言論の自由化によって、それぞれが主張を過激化させ対立が先鋭化していくという、「民主化」のツケというべきものがある。そして、あちらこちらで人々は声を上げるようになり、ある省庁の高官が言うには、国会にいちいちお伺いを立てねばならず、以前に比べ、物事を進めるのに時間がかかるようになっているとのことである。
 このようにみてくると、ミャンマーはますます混乱を深め、これからどうなっていくのかよくわからないというのが正直なところである。この国は近現代史の流れの中で、今日同様のさまざまな転換点を迎えてきた。しかし、そもそも西洋近代と遭遇し世界システムに入るそのトバ口から、蹉跌を践んできたともいえる。
 一八世紀から一九世紀にかけて、この国は東南アジア一の強盛を誇り、中国、すなわち乾隆帝のもとで最盛期にあった清国と戦火を交えて引くことがなかった。しかし、東のアユタヤ(タイ)を征服し、西に向かったこの国の勢いは、アッサム地方において、インド支配を進めるイギリス勢力とぶつかることになり、結果として、英国の植民地支配を呼び込むことになる。
 その後の植民地支配は、マンダレーの建都に見られるような誇り高き仏教国の、蓄積された富が収奪される過程であった。独立への戦いは、日本軍との出会いにより不十分でしかない独立をもたらし、搾取なき世界を目指して、植民地主義やファシズムと戦うはずが、かえってファシズムを招き寄せる結果となった。第二次世界大戦後、英連邦からも離脱し完全な独立を果たすが、東西冷戦の谷間にあって孤高の道を歩むことになった。独立運動から引き継がれた社会主義の理想は、ビルマ式社会主義という新たなシナリオのもとに国のかたちを模索するが、経済的な失敗から全国的な反政府運動ひいては民主化運動を引き起こし崩壊してしまう。他方、民主化運動は軍事クーデターのために新たなシナリオを描くまでもなく挫折する。その軍事政権は他の東南アジア諸国の開発独裁をモデルに新たな国のかたちをつくろうとするが、東西冷戦の終わった時代には孤立を強いられ、さらにアジアの経済危機もあって、そのシナリオは十分に成功していない。そして現在は民主化に向けて新しく国をつくっていこうとしているが、先に述べたようにさまざまな問題が噴出している。
 以上のような過程を見ていると、個別の政治事象はともかくとして、この国についてあらためて考えざるを得ない。すなわち、ミャンマーという国がどのような国のかたちをつくろうとしてきたのか、そのシナリオはどのようなものであるのかという疑問である。そして、シナリオを描く主体の一つである権力のあり方への問いへと導かれる。それらは、、個々の時代状況を越えて、歴史に通底する権力の観念やそれを支える価値観の問題、いわば文化としての国のかたちへの思いである。
 
 私は人類学者でありつつも、現地調査の入り口、すなわち入国や滞在においてビルマ(ミャンマー)という国の体制と向き合うという経験もあって、むしろマクロの政治世界に強い関心を抱いてきた。本書の第一部「政治と王権」は、こうしたビルマの政治や権力、そして王権について論じたものである。第一章「『伝統』の継承と断絶」では、ビルマ式社会主義時代の権力者ネーウィンが、伝統の中で何をとり、何を捨てたかを考察した。また、「力」の概念について、彼以前の指導者ウー・ヌとの対比によって、彼が伝統的人間関係に依拠していること、またその権力の「暗黙の」支えに「ナッ(精霊)信仰」の観念の潜んでいることを明らかにした。第二章「『社会主義』は経験されたか?」は、そのネーウィンの社会主義時代を、軍事政権下の時点から振り返ったものである。調査村におけるミクロレベルの観察であり、二つの時代における現地調査の資料を比較して「社会主義」の実態を明らかにし、それが、生活や社会の「伝統」の保存に役立ったことを指摘した。第三章「負のナショナリズム」は、アウンサンスーチーの最初の自宅軟禁の後という緊張した時期における、軍事政権と民主化勢力のせめぎ合いについての報告である。それは、ナショナリズムの閉鎖的な状態の中での正統性の争いとしてとらえることができ、他方で、カリスマ的リーダーシップへの人々の意志がいずれの側にも見られることを述べている。
 第四章と第五章は、伝統的な王権そのものを分析・考察したものである。第四章「王権と『叛逆』」ではビルマの王権を支える原理を考察している。仏教の教えにもとづく支配者の原理は、王個人の資格を問うものであり、王位そのものの正当性は血統と土地への支配と結びついており、後者は「ナッ信仰」の観念に関わっている。さらに王権は、個々の地域社会を越えたより超越的な正当化の装置として「天」の原理を持つが、それは普遍的な仏教イデオロギーに包摂され、王個人の資格の問題へと戻ってくる。そして、カンマ(カルマ、業)を競い合うという体制内叛逆を生み、他方で普遍的な理想的支配者の姿は力の行使を控えることとなって、王権の基盤を喪失させていく。結果として、ビルマの王権は常に不安定性を胎むことになる。第五章「ビルマの建国神話について」は、王朝時代の「年代記」に記された建国神話の分析である。その王統譜においては開闢王の話が繰り返されており、インドの釈迦族に由来する王統の正統性が主張される。天と水界(あるいは地)という宇宙の二大領域とつながりを持ち、さらに地上の先行の王権に結びつく。その結節点にあるのがピュー民族であり、外からの英雄が先立つ王族の女性との結婚で血統が保たれるように、女性は重要な位置を占めている。同様に、聖職者の介在などにより王権を生み出すものとして、仏教の重要性も語られるが、それがまた王権を滅ぼす要因としても述べられる。このように、「年代記」の物語はビルマ王権のあり様を明らかにし、それに神話的根拠を与えている。

 第二部「王権と神話」では、王権を支える原理の一つである精霊祭祀について、東南アジア大陸部諸社会から広く論じている。第七章「見えない国家」は、ビルマの旧王都マンダレーの北にあるタウンビョンのナッ祭祀について述べたものである。タウンビョンのナッは王権への反逆ゆえに殺され、王によって祀られたものであるが、その祭祀は王廷の再現であり、王権を模したものである。しかし、それは「失敗した」王権であり、王権の不安定性や地方分立の傾向を指し示している。また、「国レベル」の精霊祭祀が村の祭祀と知識のあり方を異にすることは、王権が一般の人と乖離していくことを意味し、王権が外界にあって恐ろしい力を持つものしてとどまり続けていることを示唆している。第八章「ラオス、ルアンパバーンの新年の儀礼と神話」はラオスの旧王都ルアンパバーンにおける新年の儀礼とその背景となる神話を考察したものである。そこでみられる異形の仮面は原初の住民を表わすとともに、先住の山地民と結びつく。他方で即位儀礼では水界との結びつきが明らかであり、こうした山の原理と水の原理と王権との結びつきは、東南アジアに広がる神話的観念、さらには日本の神話に共通するモチーフである。第九章「皇帝と女性の祀る社」は、ベトナムの民間信仰である「聖母信仰」をとりあげ、旧王都フエにあるホンチェン殿をめぐって、その信仰と王権(皇帝)の関わりを論じている。こうした考察を通して、東南アジアの「基層」文化における精霊にまつわる信仰や観念の意味、そして、それらと王権との関係を明らかにしようとしている。それは、第六章「東南アジア基層文化論」において概観するように、世界観における山と水という二つの異界の存在、これら外界からの力の取り込みという観念と関わっている。  

 現在の政治の動きは、最初に述べた「獅子の玉座」に象徴されているように、ミャンマー(ビルマ)の伝統的王権を回復させようとするかにも見える。それは、軍事政権時代に、開発独裁型の政治と軌を一にして行われてきた一連の文化政策が目指してきたものでもある。すなわち、この国の歴史、ことに多数派民族ビルマを中心とする歴史の称揚、ビルマ伝統文化の保存、復活、普及であり、具体的には、マンダレーを始めとする王宮の復元、新しい国立博物館の建設、芸術文化大学の開設や伝統芸能コンクールの開催などが行われてきた。そして、ビルマの歴史において統一王朝を打ち建てた三人の王の像が、国家とその権力を象徴するかのように、さまざまなところに建てられている。「民主化」とともに、こうしたビルマ民族を中心とする国家統合の動きが進んでおり、そうした時点にあって、ビルマの伝統文化の大きな柱である王権のあり様をあらためて考察するのは意味のあることと思っている。……

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〈著者紹介〉
田村克己(たむら かつみ)
1949年神戸市生まれ。
1975年東京大学大学院社会学研究科文化人類学専攻修士課程修了。
専攻は文化人類学、東南アジア地域研究。
現在、国立民族学博物館民族社会研究部教授、総合研究大学院大学教授併任。
主著書として、『暮らしがわかるアジア読本 ビルマ』(河出書房新社、1997年、根本敬との共編)、『文化の生産』(ドメス出版、2007年、編著)、『ミャンマーを知るための60章』(明石書店、2013年、松田正彦との共編)、論文として、“Intimate Relationship in Burma” (East Asian Cultural Studies 22: 11-36, 1983年)、「『物』と『霊』」(米山俊直・伊藤幹治編『文化人類学へのアプローチ』ミネルヴァ書房、pp. 231-262、1988年)、「仏教の周縁にて-ビルマのナッとガイン」(田邊繁治編『アジアにおける宗教の再生-宗教的経験のポリティクス』京都大学学術出版会、pp.131-151、1995年)など。

 

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