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幻の人類学者 森丑之助

台湾原住民の研究に捧げた生涯

幻の人類学者 森丑之助

鳥居や伊能と並ぶ台湾研究草創期の巨人、随一の探検家。台湾の研究者が長年の地道な努力で発掘。業績と生涯を紹介。

著者 楊 南郡
笠原 政治 編訳
宮岡 真央子 編訳
宮崎 聖子 編訳
ジャンル 人類学
シリーズ アジア・グローバル文化双書
出版年月日 2005/07/30
ISBN 9784894891050
判型・ページ数 4-6・304ページ
定価 本体2,500円+税
在庫 在庫あり
 

目次

 序
  「台湾原住民」という名称その他
  地図

●第一部 学術探検家 森丑之助

 訳文について
 学術探検家 森丑之助          楊南郡(宮岡真央子・宮崎聖子訳)
 解説 時代を隔てた二人の学術探検家
          ――森丑之助と楊南郡 宮岡真央子

●第二部 森丑之助の講演と回想

 解説・凡例
 台湾蕃族に就て   森丑之助
 生蕃行脚      丙牛生(森丑之助)

●第三部 交友録

 師・友人・訪問者たち   笠原政治
 森丑之助と佐藤春夫    笠原政治

●第四部 資料

 森丑之助年譜
 森丑之助主要著作

 この本ができるまで    笠原政治
 索引

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内容説明

鳥居や伊能と並ぶ台湾研究草創期の巨人であり、随一の探検家でありながら、膨大な資料を関東大震災で失い、その後謎の失踪、歴史上も学界からも忘れ去られていた存在を、台湾の研究者が長年の地道な努力で発掘。業績と生涯を紹介。

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百年前の台湾は、まさに学術研究の暗黒時代だったと言える。首狩りが盛んに行われていた山岳地方は総面積の六五パーセントを占め、神秘と禁忌の地域であった。その時、一人の日本青年が、己が志を果すため渡台し、明治後期から大正時代にかけて単身で地理学上の空白地帯でもあった「蕃地」に深く入り込み、三○年もの歳月を人類学と植物学の調査研究に捧げたのだった。

無比の勇気と真心を以て勝ち得た学術成果は卓越していたし、しかも死ぬまで台湾原住民と固い友情で結ばれ、文字通り「台湾蕃通」、「台湾蕃界調査の第一人者」と謳われた人物、その名は森丑之助である。

森丑之助は二○余年の間、島の各地を駆け巡り、太平洋の岸辺でアミの古い伝統的な船祭りを全て記録し、台湾で初めての民族誌を発表した。何回も三〇〇〇メートルを越す中央山脈の高峰を縦横に踏み越え、海抜二〇〇〇メートル、台湾で一番高いタルナス社で二七名から成るブヌンの大規模な首狩り隊に命を狙われ、五昼夜追跡された後、命拾いをした経験もあったのだ。

数ある調査報告と質量ともにすばらしい「蕃社」写真集、そして何よりも民族誌標本の蒐集は台湾総督府博物館の収蔵品を充実させ、台湾原住民の人類学研究に貢献した功績は非常に大きかった。

植物の採集では、彼個人の努力による二○余の台湾高山植物固有種が挙げられるが、それらの学名は皆「森氏」と冠されている。

日本の台湾統治五○年と終戦後また六○年を閲歴して、今日まで僅かに台湾植物学界、人類学界および山岳界で森丑之助の名はほぼ知られてきた。だが、彼の謎のような失踪事件によって、探検報告や復命書を含む膨大な著作が出版されないまま、多くの作品が散逸し、ただ『台湾日日新報』紙や雑誌にその片鱗だけが窺われる状態に置かれている。彼の撮った深山の原住民の写真が借用され、重要な学術上の論点も幾度か引き写されたが、彼の名前は明るみに出ることが少なかった。

六年前、台湾の国家文化芸術基金会は筆者が提出した「森丑之助学術探検研究計画」を認可し、「森丑之助の学術成果は台湾の重要な文化財」とのコメント付きで助成金を出して協力してくれた。筆者は一年間綿密に山岳地帯で森丑之助の足跡を探査した。そして、彼の探検記録を主な素材として選び出し、中国語訳と注釈、考証、解説等を含めて、一冊の本として出版したのである。若い学者や一般読者には、その「森丑之助選集」を通じて、台湾原住民と山地村落の本来の姿が解り、森が血と汗と引き替えに得た貴重な学術の内容と探検の経過が初めて日の目を見たわけである。

森丑之助研究の過程は辛さとロマンに溢れていた。例えば、森の足跡を辿りつつ中央山脈の心臓地帯を横断し、西暦一八八八年に清国の兵士が台湾防衛のため南投県集集より東部海岸の花蓮抜仔庄を結ぶ関門古道を開鑿した際、森も記録していた通り、海抜三〇〇〇メートル近い中央分水嶺に築かれていた日本の神社の鳥居に似た壮麗な関門「木造華表」の遺跡を発見した。夜は東側の断崖直下にある岩小屋に一泊した。そこは森がかつて幾度も泊まった場所である。その夜は満天の星が低く、燦然と輝き、熱い涙で森丑之助の行状が偲ばれた。

台湾の高山地帯は地形が峻厳で、原始的である。一日の間に本稜線より直下一〇〇〇メートル以上も降り、谷底の激流を渡渉して、再び一〇〇〇メートルの高さの坂を登るのは珍しくない。これは体力の極限に迫るものとして奮戦するわけで、筆者は道すがら、森がか細い身体つきで喘ぎつつ、狩りの小径とも言える「蕃路」を驀進する姿が目の前に浮かぶのを痛く感じたことが忘れられない。

地形の困難さと、ややもすれば禁忌に触れて首を狩られる危険は常に身近にあったのに、森丑之助は、筆者の知る限りでは最低一六回も中央山脈横断を踏破した。彼の確固たる信念と意志には、自然に頭が下がるのを禁じ得ない。

今の若い世代の人々には、森が家財と生命をも投げ捨てて、原始的な地域で学術探検に従事した功績を認識して貰いたい。その思いを抱いて、筆者は訳注本『生蕃行脚――森丑之助的台灣探険』の巻頭に、特に「学術探険家森丑之助」の一篇を描いたのである。

この一篇の長文は、台湾で一般の人たちに読まれ、図らずもすぐに大きな反響を呼び起こした。間もなく国立台湾大学と『中国時報』紙が合同して台北で座談会が開かれた。台湾の著名な考古学者、人類学者と歴史学者が一致して、台湾人類学の草創期に於ける三人の英傑の一人として、森丑之助を、鳥居龍蔵、伊能嘉矩と同じく学術上の高い地位を受けるべき栄誉ある人物と評価したのは言うまでもない。まことに画期的な結論であった。

台湾のインターネットでも、評論家と専門家によって「西暦二千年度優良図書」が選考され、筆者の訳注本『生蕃行脚――森丑之助的台灣探険』が「十大翻訳書賞」を獲得した。これは各界からの激励の結果であり、ここに感謝の言葉を申し述べたい。

このたび日本で、横浜国立大学の笠原政治教授と森丑之助の曾孫森雅文先生の御厚意によって、台湾文化研究の若い学者宮岡真央子と宮崎聖子共訳による「学術探検家森丑之助」に加え、森丑之助原著の「台湾蕃族に就て」と「生蕃行脚」などを一冊の本として、日本の学界と読書界の皆さん向けに出版できるのは非常に意義のあることと確信し、森丑之助を偉大な学術探検家として推薦する光栄に与っている次第である。

台湾の高山地帯では、毎年の四、五月には、暖かい春風が吹き始める頃、美しい森氏シャクナゲが一斉に中央山脈や玉山山脈の山々を色どって、数十キロメートル以上の長さにわたる花の海を演出し、台湾の山岳地帯で最も華やかな「花の宴」に変わる。今では、人々は絢爛な森氏シャクナゲを見ると、森丑之助の偉大な事績を思い起こさずにはいられない。

最後に、『学術探検家森丑之助』の日本語版刊行に際して、森丑之助の学術成果と独特の事績が彼の故郷である日本で広く知られ、学界から顕彰されるよう期待するものである。

二○○四年三月 台湾台北にて                  楊 南 郡

 

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〈著者紹介〉

楊南郡(ヤン ナンチュン/よう なんぐん)

1931年、現在の台湾台南県に生まれる。1944年に少年工として神奈川県高座海軍工廠へ。戦後、国立台湾大学卒業(英文学専攻)。台湾で外国外交機関などに勤務するかたわら、登山家、台湾山地研究家として活躍。日本時代の山地原住民の学術調査、清国時代の古道、遺跡などを精力的に実地検証し、多数の著書・翻訳書を出版。

主な著書として、『合歓越嶺古道調査報告』(1986、1990年)、『與子偕行』(1993年)、『台湾百年前的足跡』(1996年)、主な訳註書として、『探険台湾──鳥居龍蔵的台湾人類学之旅』(1996年)、『(伊能嘉矩)台湾踏査日記』(1996年)、『鹿野忠雄伝』(1998年)、『台湾百年花火』(2002年)等。

 

笠原政治(かさはら まさはる)

1948年、静岡県生まれ。東京都立大学大学院社会科学研究科博士課程単位取得退学(社会人類学専攻)。横浜国立大学教育人間科学部教授。

『アジア読本・台湾』(共編著、河出書房新社、1995年)、『台湾原住民研究への招待』(共著、風響社、1998年)、「台湾の民主化と先住民族」(『文化人類学研究』5巻、2004年)等。

 

宮岡真央子(みやおか まおこ)

神奈川県出身。横浜国立大学大学院教育学研究科修士課程修了。東京外国語大学大学院地域文化研究科博士後期課程在籍(文化人類学専攻)。

「ツォウ民族誌を読む」(『南島史学』65/66号、2005年)、「拡散し束ねられる村むら──ツォウの社会実践をめぐる〈二項対立同心円モデル〉再考」(『台湾原住民研究──日本と台湾における回顧と展望』台湾原住民研究シンポジウム実行委員会編、風響社、2005年)等。

 

宮崎聖子(みやざき せいこ)

長崎県生まれ。お茶の水女子大学大学院人間文化研究科修了(人文科学博士)。研究領域は文化人類学、植民地史、ジェンダー研究。お茶の水女子大学ジェンダー研究センター アソシエイト・フェロー。

「青年会から青年団への転換──台北州A街の場合」(『日本台湾学会報』5号、2003年)、『ジェンダー研究が拓く地平』(共著、文化書房博文社、2005年)等。

 

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