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台湾タイヤル族の100年

漂流する伝統、蛇行する近代、脱植民地化への道のり

台湾タイヤル族の100年

タイヤル族の近代を詳細に跡付けながら、民族アイデンティティ希求への筋道を確認、彼我における100年の意味を問いかける。

著者 山路 勝彦
ジャンル 人類学
シリーズ 人類学専刊
出版年月日 2011/03/15
ISBN 9784894891623
判型・ページ数 A5・492ページ
定価 本体5,000円+税
在庫 在庫あり
 

目次

まえがき

      ●第一部 ガガと贖罪──タイヤル族慣習法の世界

第一章 日常の生活圏と人間の分類
 第一節 日常の生活圏
 第二節 周辺の地理的認識
 第三節 人間の分類

第二章 慣習法の意味論──ガガの社会・文化的秩序
 第一節 ガガの語釈
 第二節 先行する二つの研究──霧社と南澳の事例
 第三節 鍵概念の検討
 第四節 マトワル地方の慣行
 第五節 ガガの崩壊と農耕儀礼の展開
 第六節 展望のための比較
 第七節 贖罪と個人

第三章 親族儀礼と出産の穢れ
 第一節 親族関係の概観
 第二節 キョウダイ関係と禁忌の慣行
 第三節 出産と穢れの観念
 第四節 比較への展望

第四章 病気の概念と癒し
 第一節 病気の民俗概念
 第二節 病気の種類と名称
 第三節 病因についての考え方
 第四節 呪術、占い、そして救済

第五章 変化のなかのタイヤル族──一九八〇年までの軌跡
 第一節 日常生活の変貌
 第二節 分配と平等
 第三節 キリスト教と宗教観念の変化
 第四節 変化、そして時間と歴史

      ●第二部 植民地経験の民族誌

第六章 植民地主義の誕生──明治七年の台湾出兵事件
第七章 南庄事件と〈先住民〉問題──植民地台湾と土地権の帰趨
 第一節 台湾と樟脳
 第二節 南庄事件の原因と展開
 第三節 植民地統治と土地権
 第四節 保留地の過去と現在

第八章 萬大村の昭和史──『須知簿』を読む
 第一節 萬大村の成り立ち
 第二節 タナー・トノフがやって来た
 第三節 風俗習慣と「迷信」の記録
 第四節 トウモク制度の擁立
 第五節 支配の貫徹とガガの崩壊
 第六節 未知なる外の世界へ

第八章・附 絵葉書の民族誌、あるいは植民地の表情
      ──皇民化時代、先覚者の描いた台湾ツォウ族の自画像

      ●第三部 脱植民地化への道──現代を生きる

第九章 部族? 民族?──タイヤル族の分限、タロコ族とセデック族
 第一節 近世文献にみる人間集団の記述
 第二節 人間分類の開始──「種族」概念の登場
 第三節 タイヤル族と「種族」、および「部族」
 第四節 国家のなかのタイヤル族
 第五節 伝統の模索
 第六節 タイヤル族、セデック族、タロコ族

第十章 蛇行する〈原住民工芸〉
      ──タイヤル族の織布文化、脱植民地化とモダニティ
 第一節 博物館での展示
 第二節 「原始芸術」の発見
 第三節 織布文化の流転
 第四節 織布文化と民族認同
 第五節 〈エスニック〉という次元からの飛翔
 第六節 おわりに

あとがき
引用文献
索引

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内容説明

日本植民地時代の「文明化」から中華民国の「国民化」を経て、大きな変貌を余儀なくされた台湾原住民族。本書は、タイヤル族の近代を詳細に跡付けながら、民族アイデンティティ希求への筋道を確認、彼我における一〇〇年の意味を問いかける。


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まえがき


本書は、過去一〇〇年以上にわたる歴史を展望しながら、台湾北部山地に居住するタイヤル族の生活文化について記述した民族誌である。タイヤル族は台湾の他の住民と同じように日本の植民地支配を受けた歴史を持っていて、北海道のアイヌ民族を除けば、人類学が対象とする世界では、これほど日本と密着した関係をもった民族はほかにはない。この歴史を踏まえ、本書では次の三点が主な論点として設定されている。第一に、植民地支配によって伝統が変化したが、いったいその伝統とはどのようなものであったのか、ということである。とりわけタイヤル族の共同体を維持してきた慣習法の意義について論じることである。第二に、日本の植民地支配について論じることである。ただし、これについてはすでに述べたことがあるので[山路勝彦 二〇〇四]、それとの重複を避け、またその際に言及しきれなかった事柄をここでは中心に叙述を進めている。第三に、植民地支配を脱する過程にあってタイヤル族が模索している文化創造について論じることである。これは現在のタイヤル族にかかわる事柄である。ただし現在の台湾では、タイヤル族以外にも、各地で様々な類似した試みが実践されているので、台湾全体を視野においた論述になっている。以上のことを念頭においたうえで、以下、本書の概略を説明しておきたい。


……日本の人類学者は、この台湾の「原住民(族)」に対して古くから知的好奇心を抱いてきた。アジアの大地を駆け抜けた鳥居龍蔵が台湾島の沖に浮かぶ蘭嶼ヤミ(タオ)族の調査に出かけたのが明治二九(一八九六)年のことであったから、それから数えてすでに一〇〇年以上の歳月が流れている。この離島で調査した鳥居の仕事は『紅頭嶼土俗調査報告』として、明治三五年に東京帝国大学に提出されている[鳥居龍蔵 一九〇二〈一九七六〉]。それは、日本の大学人による最初の海外調査の報告書であった。だが、それ以後の台湾研究は、大学人というよりも、伊能嘉矩や森丑之助に代表される植民地行政官や民間学者によって精力的に推進されていった。当時の台湾は高山の連なる奥地で馘首が頻発していたので、調査を行うにしても、現在と比べようもない緊張感のなかにおかれた状態であった。その命がけの仕事から、伊能、森らの業績が生み出されていった。この両人は台湾研究の先駆者としての評価が現在では定まった感があり、その業績のいくつかはすでに何人もの論者によって紹介されている[森口雄稔編 一九九二、楊南郡 二〇〇五]。


……戦後、日本人にとって、台湾での野外調査が政治的意味で難しくなると、急速に台湾研究は衰退していく。馬淵自身、沖縄に調査地を求めていくようになった。その結果、一九六〇年代から七〇年代にかけて、台湾で調査を行っていた日本人はほんの僅かでしかなかった。この期間、台湾研究を主導していたのは、大陸から亡命してきた「外省人」の研究者、例えば凌純声、?逸夫、衛惠林らであった。凌や?は実によく多くの弟子を育て、こうしてその弟子たちが日本人の去った後の空白を埋めるかのように調査活動に従事することになった。?逸夫は歴史研究を得意とする人類学者であったが、大陸で在職していた時代、凌純声とともにミャオ(苗)族をはじめとした少数民族の調査を何度も経験している。台湾での調査も参与観察を中心としていて、親族の系譜を調べ、儀礼の詳細を聞き取るという調査を実施し、そこから得られた資料を積み重ねて民族誌を作成するという、日本人の台湾研究とさして違いはない正攻法の立場からする方法を採用していた。


さて、筆者は一九七〇年代から一九八〇年代に集中的に調査を行っている。その調査地は一九七〇年代にアミ族、そして八〇年以降は主にタイヤル族である。なかでも、比較的長期間にわたって調査していたのは人口にして八万人程度のタイヤル族であり、当時まだ隆盛をみていた親族組織や儀礼生活の研究に焦点を置いての調査であった。筆者がこのアミやタイヤルの村々で調査をしていた頃、調査者の「国別」勢力関係では、日本人の戦前の業績を再利用しながら研究を進めていた台湾人の優勢のもとで展開されつつあった。欧米人の研究者も僅かではあったが、いることはいた。けっしてその存在を無視するわけではないが、日本人の打ちたてた戦前の業績をもとに、台湾人(漢人)の活躍が華々しく展開していたというのが、当時の実情であった。そして、古い伝承を聞き出すことに精力を傾注することが、その時の多くの調査者が心がけていた事柄であった。馬淵が調査したような伝承の世界はほぼ姿を消しつつあったので、古い伝承を記録として残す営みが優先されたのである。それと同時に日本の植民地統治がどのような変化をもたらしたのか、この聞書きはとくに関心を抱かせた。なぜなら、当時を生き抜いてきた老人たちは好んで自分たちの青春時代を熱く語ってきかせてくれたからである。


古い伝承の発掘に精力を注いでいた背景には、台湾での社会・文化変化が急速に進んでいたという事情がある。昭和期には皇民化政策が推進され、生活改善運動のもとで古い伝統は捨て去られ、戦後もまた中国国民党のもとで同化政策が採用され、また市場経済の浸透が生活構造そのものを改変させ、こうして往時の面影は消えうせつつあった。当時、古い風俗習慣を知る世代は大正生まれ、およそ一九二〇年代生れに限られ、それ以後の世代との生活経験上の断絶がはなはだしく、この機を逃しては永遠に古い伝承は消失してしまうという恐れがあった。したがって、できるだけ多くの情報を得ようとして、筆者も含め、多くの人類学者は大正生まれの老人を求めて面談を繰り返していた。


筆者も含め、当時は多くの人たちも同様な感慨で調査をしていたことと思う。それは、それでよいし、実際に多くの知見が古物掬い(サルベージ)の結果から得られたことは事実である。人々が伝承してきた世界は今となっては現地の村人さえ知らないし、もはや歴史的資料になった貴重財とさえ言えるものもある。現在、台湾の多くの場所で地方の行政機構によって伝統の見直しが奨励されているが、その見直しは戦前の日本人の研究成果に大きく依存しているのが現実である。こうしてみると、六〇年代から八〇年代にかけて当時の人類学者が心がけていた古物掬いは、戦前の業績を現在につなぐ橋渡しの役割を負っていたことになり、いかに重要な作業であったのか理解できたことと思う。


しかしながら、一方で、一九七〇、八〇年代のタイヤル族は相対的に貧困な状況に置かれ、高度成長を達成しつつあった台湾社会のひずみが押し寄せてきたこともあって、ある種の社会不安が渦巻いていた時代であった。タイヤル族について言えば、一番の問題点は民族としての認同(アイデンティティ)意識の弱体化であり、若年層にはとりわけ漢族化されつつある姿が見受けられたのであった。このあたりの状況は本書第五章、および第一〇章を参照してもらいたい。第五章は八〇年代に執筆された論文であり、今となってはいささか内容的に古いのだが、筆者の体験した当時の状況を記録し、その時までのタイヤルの社会変化を跡づけようとして収録したものである。


実は、このようなタイヤル族の変貌はすでに昭和一〇年代ころから起こっていた。総督府の山地政策は多くの社会変化を引き起こしていたし、生活改善運動は伝統的な祭祀儀礼を「迷信」として撲滅の対象に据えていた。この移住政策とは、高地に住むタイヤル族やブヌン族などを平地近くに下ろし、水田耕作を行わせるというものであったし、また警察の監視の行き届く範囲に住まわせ、管制するという意味がそれにはあった。この結果、大きな社会的・文化的変化が生じたのである。この政策の根底には総督府の土地政策が横たわっていた。ところが、馬淵東一を含め、当時の人類学者は調査地でこうした状況に接しながら、この種の変化の調査を怠り、総督府の土地政策についての議論を行ってこなかった。このなかで例外ともいうべき存在として小泉鉄を挙げることができる。小泉については本書第二章でも取り上げ、すでに論じたことがあるので詳しくは繰り返さない[山路勝彦 二〇〇四]。ただ一言だけ言えば、タイヤル族とアミ族で行った小泉の研究の目的は、自治的な統治機構をもつ自律的な民族であることを証明することにあり、この点で総督府の植民地政策に真っ向から批判を投げかけるものであり、その総督府批判は厳しい内容であった[小泉鉄 一九三三:二八七─三一七]。


しかしながら、他の人類学者は総督府の植民地政策の意図とあまりにもかけ離れた位相に立っていた。馬淵東一の学問的評価の華々しさと同時に、研究課題の設定という面では、その方法論上の問題点は無視するわけにはいかない。この点に関しての馬淵東一批判は別の論文で展開しておいた[山路勝彦 二〇一一]。思えば、筆者の聞き取り調査に関係した話者たちは、馬淵の調査時には青少年の年頃であって、伝統的な慣習法の世界を経験していたと同時に、日本の統治下で大きな社会変動を実感していた世代であった。その老人たちの口からは日本統治を懐かしみ極端な日本礼賛の言葉がいつも飛び出していたが、その評価はともかくとしても植民地統治の歴史を無視してはタイヤル民族誌を語れないと実感したものであった。タイヤル族での古物掬いあげの調査は、同時に人々が植民地統治下でどのように暮らしてきたのかを聞き取る調査でもあった。


台湾調査は一九八〇年代前半でひとまず終了した。その後、一九八七年から一年間、筆者はオーストラリアに滞在していた。そこで見聞したのはアボリジニの激しい闘争であった。「土地を返せ」という掛け声のもと、アボリジニは「白人社会」への異議申し立てをしていた。その時はアボリジニの土地権を認めたマボ判決が下される五年前であった。だが、これと同質な運動は台湾でも起こっているという情報を得た時、ある種の身震いを感じた覚えがある。はるか彼方のオーストラリアから、台湾での「土地返還」運動の実情を知りたいという感情に無性に襲われたのも確かであり、シドニーにおいて台湾研究の戦略を模索し始めていたのであった。それ以後は「先住民運動」に注目する必要を感じたわけである。


「土地返還」運動は日本の植民地統治と深く結び付いている。筆者の植民地研究については、山路[二〇〇四]を参考にして欲しい。それが、一九八〇年代末から九〇年代にかけて取り組んでいた主題であったし、引き続いて二〇〇〇年代でも研究を続けている。このなかでも、明治七(一八七四)年の「台湾出兵」と明治三六(一九〇二)年の「南庄事件」の研究は筆者に強い衝撃を与え、本書でも重要な意味を持たされている。前者からは、後の日本植民地統治の雛形になるような理念が編み出され、後者の「南庄事件」は台湾統治の実際の出発点でもあった、と位置づけることができると思う。しかしながら、日本では「南庄事件」はあまり知られていないし、人類学者の学的営みに関係していくらかの誤解さえ生み出している。


八〇年代末の状況は、タイヤル族の植民地研究は先住民運動に関係させて議論しなければならないことを教えてくれた。一九八八年冬に台湾を訪れた時、新聞やテレビではしきりにツォウ族、ヤミ(タオ)族、タイヤル族、ブヌン族などへの差別的行為を糾弾する運動が報道されていた。こうしたなか、一九八四年に誕生した「原住民権利促進会」(原権会)の成立は台湾社会に新しい息吹を吹き込もうとしていた。この運動が徐々に人々の心を掴み、タイヤル族のなかにも強い自己主張が生まれ始め、七〇年代、八〇年代初頭に見たようなタイヤル族自身の自虐的雰囲気はかなりやわらいできた。さらに、九〇年代末に至ると、台湾山地では「文芸復興」の気運さえ生まれてきた。こうした動きを「原住民工芸」という観点から理解したらどうであろうか。工芸作品はどこの地域でも、どこの国でも、見ていて楽しいものである。二〇〇〇年代の調査は、こうして「原住民工芸」の調査も視野において行うようになった。そのために、さらにいくつものタイヤル族の村を訪ね歩くことになったし、それ以外の他の民族の調査も試みることになった。


以上は、自分の過去の調査を見すえながら、台湾のタイヤル族で経験した事柄を時代の経過に沿って簡略に説明したものである。本書は、おおむねこうした時間の推移に沿って叙述されている。この内容を踏まえたうえで、本書の構成を述べてみたい。第一部(第一章から第五章)は、タイヤル族民族誌についての記述である。タイヤル族(およびセデック族)を対象に選択したのは、親族と呪術に関する社会人類学的研究に興味を覚えたからであり、この主題がそれ以後の調査の出発点になった。この民族誌的記述は、一九八一年に花蓮県のセデック族で行った一ヶ月の予備調査の後、一九八二年八月から八三年三月、および同年七月から九月にかけて実施した調査に基づいている。調査地は苗栗県泰安郷の?水(マトワル)地方である。この調査の成果は第一部の諸論考に示されている。それは主に三つの事象の探索から構成され、第一の仕事はできるだけ以前の社会状況を復元する目的で行われた。その最初は、この地域の住民が日本人の到来する以前に持っていた習俗の記録であり、その手始めとして生活空間の地理的認識の問題を取り扱っている。その生活空間の調査は、現在、「原住民族」の権利復活運動の一環として着目されている「伝統領域」の問題に関係している。それとともに、「部族」、「人種」、「民族」などの諸概念の検討に際して重要な論点を提供してくれる。この章は、したがって第二部、第三部の諸論考の前提になる重要な論点を提供している。


ついで第二章、第三章、第四章はタイヤル族のガガ(掟、慣習法)の問題を扱うことで、タイヤル社会の特徴を描き出そうとしている。タイヤル族の慣習法世界は、以前は多様な禁忌の世界に取り巻かれていて、深く儀礼的・宗教的観念で結びついていた。その詳細は本論に譲るとして、慣習法研究は別の角度から言えば「共同体」の意味論ということになる。共同体とは生活を共に支える人たちの集まりであると理解しておけば、ガガこそが共同体を根底から支え、共同体の理念を体現させる掟であった。ガガについては、最近では王梅霞[二〇〇三:七七─一〇四]の論考がある。さらに、一九九九年に中部台湾を襲った大地震の復興をめざすに際して、それは、地域社会を再建するのに深く関わる概念であると再認識され始めていることを紹介しておきたい[何貞青 二〇〇五:三六─五五]。


その慣習法の世界はすでに日本の植民地政策によって衰退を余儀なくされ、その後の市場経済の浸透で形骸化した。その変化についての記述が第五章である。ただし、ここでの議論は、筆者の一九八〇年代の調査時期に書かれた内容で、扱っているのもその年代の初頭までの状況である。当時、筆者の見たタイヤルの社会変化がどのようなものであったのか、考えるよすがにしたいと思って収録している。


第二部では議論は一変する。台湾社会を大きく変えた日本の植民地統治が主題になる。その書き出しの論文が明治七年の「台湾出兵」事件から始まっているのに不思議に思う読者がいるかもしれない。けれども、日本の植民地主義統治理念の原風景を作り上げたのが、この「台湾出兵」事件であったことがすぐに了解されることだと思う。この事件を通して、「無主の野蛮人」という概念の登場、そして「文明化の使命」を自負する植民地主義者の姿が透視されることであろう。


この議論を前提にして第二部の論考は展開する。第七章では南庄事件が取り上げられ、台湾総督府の土地政策の根幹に関わる事件であったことが分析されている。さらに、この事件が実に現在の「台湾原住民(族)」の存在自体にいかに深く関わっているか、教えてくれるであろう。明治二八年の領有に始まって現在(二〇一〇年)に至るまでの期間、すなわち日本統治から中華民国の統治に至るまでの間、植民地主義の実態を無視してタイヤル族をはじめとした台湾諸族を語ることは不可能であるし、台湾での先住民運動の正統性を理解するためには、この南庄事件の認識を深めることが大切である。


第八章はマトワルからはかなり離れた、しかし同じタイヤル族の萬大村の事例研究である。『須地簿』という日本時代の警察文書を野外調査で検証した論考で、「文明化の使命観」を抱いていた植民地官吏の働きぶりと萬大村の人々の植民地経験に焦点が置かれている。生活構造の改革に取り組んでいた日本の警察当局の実直な活動も読み取れるはずである。基本的には、この萬大村で見た植民地統治の実情はマトワルと同じである。第八章には「附論」がついている。植民地統治とは行政官の意のままに実行されるのではなく、その統治には地元民の協力者を必要とする。現地協力者(コラボレーター)の活躍を抜いて植民地統治は語れないと思ったので、ここにツォウ族の資料を付け加えた。その時代、ツォウ族の青年リーダーとして活躍していたのは矢多一生(ツォウ名、ウォグ・ヤタウユガナ、漢名、高一生)であった。タイヤルでも、この矢多一生と同じように日本統治に協力していた人物はたくさんいた。ツォウの矢多一生の活動を通して、タイヤル族の現地協力者の活躍が髣髴されることだと思う。一方では伝統的に備わっていた自治権を奪い取り、自由に走り廻っていた大地の所有権に制限を加えたこと、他方では生活構造を整備し、生活上の利便をもたらしたこと、一見すると矛盾しているような状況を作り出しながら、その均衡を見据えながら植民地統治は行われていたことが第二部の論述で示されている。


第三部の主題は、過去の歴史を前奏曲として触れているにしても、現代を生きる人たちの認同(アイデンティティ)の問題に照準を合わせている。第九章では近年の「民族正名」運動に議論を集約していった。誰をタイヤル族と言うのか、この議論は伊能嘉矩の時代からたいへん難しい問題をはらんでいる。いったい、台湾の「原住民族」でいう「民族」とは何を指していたのか、そしてその概念の背後にはどのような認同意識が隠されていたのか、これらの議論を扱っている。したがって、この議論は第一章で議論した「人間の分類」の続編でもあり、一九八二年の調査で得た、おそらくは過去を知る最後の伝承者から聞きだした情報を新しく装いを凝らした皮袋に入れて再登場させた論考である。第十章では「原住民工芸」の問題に移る。「工芸品」はみやげ物として市場で入手可能であり、また博物館で美術品として観賞もできる。一方で、「工芸品」作りを通して自己の伝統を守る運動にも結びつき、あるいは伝統を刷新して新しい作品作りに励むことで新文化の創造にも寄与する。「工芸品」つくりは「原住民(族)」の姿を映し出す鏡なのである。


こうして、本書は三〇年ほど前に開始した野外調査を基軸にして、過去の植民地主義の問題と現在の民族認同の問題を重ね合わせた論考になっている。このなかで、日本の植民地統治の研究がいかに重要な位置をしめているのか、理解されたことだと思う。現代の日本人には縁の薄いタイヤル族であるが、近代日本がタイヤル族の運命を決定してきたこと、同時に、タイヤル族の歴史に向き合ってみた時、水面に映し出された己の姿を見るように、近代日本の姿が照らし出されていることに気づくはずである。そして日本の人類学の歩みさえも、タイヤル族の歴史と深くかかわっていることを読者は洞察してくれると思う。以上が、人類学の民族誌というよりも、実際は日本近代に関わるタイヤル社会史という分野に収まりそうにも見える本書の筋書きである。

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著者紹介
山路勝彦(やまじ かつひこ)
1942年生まれ。東京都立大学大学院博士課程退学。社会学博士(関西学院大学)。歴史人類学専攻。
現在、関西学院大学教授。
著書に、『台湾の植民地統治:〈無主の野蛮人〉という言説の展開』(日本図書センター、2004年)、『近代日本の植民地博覧会』(風響社、2008年)など。

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